【中勘助の弁天島生活】執筆:三島憲一
前回は、野尻の公民館前の駐車場脇にある中勘助の石碑を紹介した。あまりにも有名な『銀の匙』の舞台は主として神田から小石川だが、執筆された場所は1912年(大正元年)の野尻湖の湖畔だ。書きながら湖面の動きに目をやり、あるいはふり返って妙高や黒姫を眺めていたことだろう。そして前回の最後に触れたが、その前年、1911年(明治44年)6月に一年志願兵(「一年志願兵」とは明治の日本がドイツ帝国から学んだ制度で、これを経て士官に任官されて沙婆に戻ると「一人前」となる)として勤務していた近衛歩兵第四聯隊を除隊した中勘助は、9月末から10月にかけて弁天島に篭った。その後も比叡山の横川などに篭っているから、よほど篭るのが好きだったらしい。ちなみに黒姫駅前の藤野屋旅館ができたのが、その前年の明治43年だそうだ。
弁天島での数週間の日記を「島守」と題して他の作品とともに岩波書店から出版している。秋の野尻の風景、白根方向からの吹き下ろし、妙高方面からの強い北風。乱れ飛ぶ雲、黒姫山麓に立ち登る炭焼きの煙、夜半の嵐、湖面を叩く雨脚など、自然の風景が、そこに暮らす人々の点描とともに活写されている。これは筆者の推測だが、すでに出ていた国木田独歩の『武蔵野』(1898年、明治31年)などからもヒントを得たのかもしれない。自然の描き方がどことなく似ている。あるいは、秋の日本の自然はどこも似ているから結果としてそう見えるだけかもしれない。いずれにしてもどちらも自然の中に一人歩む、それを文章にするという明治ロマン主義の躍如たる名文だ。
あとはしめじの話とか、麦醤油の話題、そして貰った鯉を煮て食べる話、枝豆を茹でる夕刻とか、当時の食生活も多少わかる。ニワトリの肉は出てくるが、牛や豚の肉のはなしはないし、スパゲッティやオリーブ油の話題は出てくるわけもない。
今回は、文庫本で40ページほどの「島守」から数カ所を、途中に注と感想を入れながら紹介するにとどめたい。気に入った方は岩波文庫で手に入るので、中勘助の文章を通じて、慣れ親しんだ野尻の風景を味わっていただければ、さいわいだ。折りから秋が深まる頃だ。
明治44年9月23日
蓑笠をつけた本陣に先導をたのんでひどい吹きぶりのなかを島へわたった。これから私の住居となる家は年に一度の祭礼に遠方からくる神官の泊るために建てたもので、羽目板はところどころずり落ち雨戸もまだついていないゆえほんの雨つゆのしのぎになるばかり、夏が過ぎればすぐ冬になるならいの山国の湖のなかにただひとつ浮いて出たようなこの島をめがけて周囲の山やまからおしよせてくる寒さをこの都人に防いでくれるほどの用にも立たない。積んである畳を幾枚か家のなかほどにしいて座敷とし、かたかたの床には白木造りの神輿、かたかたには炊事の道具をならべ、畳の黴をふき、あたりの塵を払ってみれば思ったより住みごこちのいい住居になった。梁の上には笠鉾、万燈、枝と縄と藁で面白い粗野な織物になってる屋根裏からは太鼓、提灯などがぶらさがっている。本陣はそとから板屑を拾ってきて焚きつけをこしらえ、米はこのくらいに、水はこれくらいに、火はこうして、と懇に教えながら昼飯の支度をして、やがて飯ができたのでちょこなんと畏って給仕をしてくれる。それから南の浜へおりて器を洗うなどひととおり用事をすませたのち 「ごはんが残ったらおじやにしておあがりなさい」 といって帰っていった。あとに残った私は、これでいよいよ独りになった、と思った。
[国語の先生なら、ふりがなの試験に出したい字がいっぱいだ。漢字を読みまちがうことの多いこの国の二人の元首相を含む政治家たちにも試験してみたい。畳の黴の処理はグリーンタウンの皆さんならどなたも経験がありそうだ。このあとの日々は、島に行く前に泊めてもらい、郵便の受け取りなども依頼していた安養寺(旧18号線沿いに今でもあるが、かなり荒れている)に挨拶に行き、そこで本陣の池田さんとおしゃべりをしていると、葉書が来て、九州に嫁いでいる妹の危篤のしらせ、などの記述がある。ただその数日後には、幸いなことに回復しつつあるという葉書きも受け取っている。朝起きて顔を洗うのも、米をとぐのも、食器を洗うのも、すべて野尻湖の湖水を使う生活だ。今なら環境保護ナンバーワン]
10月2日
朝。鳥は山をこえる朝の光をみて さめよ さめよ さめよ と呼ぶ。呼ばれてさめるものはこの島に私ひとりである。そうしてさめて四周の清浄なことを思って心から満足をおぼえる。闊葉樹の葉ごしに緑の光がさして切るような朝の気が音もなく流れてくる。崖をおりて浜へ出る。村のひとたちはまだ起きたばかりであろう。湖にも丘にも影がみえない。
食後、桟橋へ出る。斑尾の道を豆ほどの荷馬がゆき、杉窪を菅笠がのぼってゆくのは蕎麦を刈るのであろう。そのわきには焦げ茶色の粟畑とみずみずしい黍畑がみえ、湖辺の稲田は煙るように光り、北の岡の雑木の緑に朱をおりまぜた漆までが手にとるようにみえる。妙高、黒姫も峰のほうはいつしか黄葉しはじめた。曳かれてゆく家畜のように列をなして黒姫から飯綱へかけて断続した朝の雲がゆく。水の底が遠くまで透けて日光につくられた金いろの網がぶわぶわとゆらぎ、根こぎにされた水草の芽が浮きもせず沈みもせずにゆらゆらと漂いあるく。
南の岡へゆこうとおもって島をでる。池田さんへ寄ったらほかほか湯気の立つ箕のそばでおばあさんが麦を蒸していた。ねせておいて醤油をつくるのだそうだ。秣山へゆく道は灌木の岡にそうて陰になり日向になりうねうねとうねってゆく。人どおりのないのと岡がせまってるのとで斑尾の道よりいっそう淋しい。たまにゆきあうお百姓たちも村の人ではあろうが見知らぬ顔ばかりである。
とある山陰で粗朶を背負ってくる娘さんに逢った。十六、七の痩せぎすで、まみえと目のあいだにほんのり上気して、色白の頬に汗がひとすじ流れていた。彼女は小鳥かなぞのようにおじけてちらりと見た眼を胸のへんにつけながらおずおずとすぎていった。田の畦や湖ぎわに枸杞もまじって赤い実が沢山なってるのをよくみればひとつひとつ木がちがう。
秣山 ―南の岡― は美しい岡である。まどろむように横わった草山のあちらこちらに落葉したのや黄葉しかけた灌木が小松の緑にまじってるのがちょうどいろいろの貴い毛皮をもった獣が自然に睦あって草をくってるようにみえる。羊歯は枯れたが女郎花はまだ咲きのこっている。うす紫の小鈴をつらねた花の名はなにか。松虫草のなかをゆくと虻の群が一斉に羽音をたてて飛びあがる。風がないので日は春のように暖い。萩、うるしがもみじして柏の葉がてらてらと日を照りかえす。あらまし葉を落した山つつじの灰色の幹の群立ちも美しい。滑かな窪地をとおして帯のように雑木が繫ってるのは清水の流があるのだ。草のうえに横になってうっとり眺めてると山やまの嶺に雲が自らに湧いてまた自らにきえてゆく。
[杉窪は「杉久保ハウス」などを通じてなじみの地名だ。昔は「窪」の字を使っていたらしい。「斑尾の道」とはどの道のことだろう。湖畔道路からほとり荘の少し前を斑尾の方に曲がっていく通りのことだろうか。当時は人が歩いて通るだけの道だったことは十分想像できる。ただ、この日記の全体の使い方から見ると、湖畔のほとり荘やレイクサイドのある道路、つまり島の北側の道路を指しているようでもある。蕎麦も今は機械で刈るが、つい最近までは鎌だったはずだ。粟や黍(キビ)は今では見かけないが、当時の食生活を忍ばせる。農村の子供たちは、軍隊に入ってはじめて毎日白米を食べられた時代だ。麦を蒸して麦醤油を作るお婆さんは、明治44年だから、江戸時代の天保・弘化・嘉永年間ぐらいの生まれだろう。「秣山(まぐさやま)」とはどこの山だろう?「南の岡」ともあるから、「まどろむように横わった」という形容から見て、今の国際村の山、つまり神山のようだ。当時はこういう名称だったのだろうか。古老にきいてみたいものだ。「もみじする」などという紅葉を一般化した動詞用法は、中勘助の創作なのか、明治の日本語ではふつうだったのか]
10月3日
夜なかから嵐になった。目をさましたら障子がはずれてるので起きて縄でからげた。枝の音、島の根を打つ波の音、吹き落とされた鳥のあわただしい鳴声がする。 白根颪が強く吹く日には南の浜は水が濁るので北浦の水をくむ。 夕。一日吹きまくった風がぱったりやんだ。わずかに日がさして山も水もしずまりかえっている。と思うまに北風がごうごうと雨をさそってきた。湖水に風脚がみえて日が恐ろしく暮れてゆく。
[南の浜とは、島から見て砂間館側の浜のこと。たしかに南風のときは、島の南側には色々ゴミが吹き寄せられるだろう]。
10月11日
朝。小雨のなかを本陣が菜と雉笛と大笊に一杯のしめじをもってきてくれた。本陣はくるたんびになにかしら山里らしい話を積んでくる。しめじはこのへんでいちばんいい茸だということ、なに茸とかいって傘の茎が一尺もある気味の悪いのもたべるということなど。
ゆうべのうちに山へ雪がきた。妙高に三度ふれば里にもくるといういいつたえで村は今草刈りのおわり、とり入れのはじまりで大騒ぎだ、という。十二日の秋祭 ― 祭とは名ばかりでこれということもない。― までに草を刈りおえ、新そばをたべ、収穫をはじめて霜月のなかばまでに凡ての農事をしまい、それから人びとは身も心ものびのびとして思いおもいの温泉へゆく。(以下略)
[この秋祭とはいつまでやっていたのだろう。8月の末の祭りはいまでもやっているようだが、これも1980年代はとても賑った。もっともYouTubeでは「信州信濃町 秋の獅子舞」で検索すると数年前の屋内での祭の様子も見ることができるが(https://www.youtube.com/watch?v=ucIA9Vmuj0M)]
10月12日
秋祭。朝本陣が迎いにきた。
斑尾の道をあるく。黍畑はいつまでも若わかしい緑色をしている。粟畑は濃い海老色になってもまだ刈られない。きのう菅笠のみえたあたりは一段ほどの稲がふり干しにされている。足の疲れたところからひきかえして村へはいるときちょうど托鉢の尼さんが読経をおえてある家の軒下からこちらへくるところだった。私はすれちがいながらなにげなく深い笠のうちをみた。染めたようや豊かな頬や、読経のために充血した唇や、岩間を清水の流れてゆく尼僧の境涯には涙なしには住めまいほどなまめいている。これからどこをまわるのか斑尾の道のほうへいった。
かねて招かれてた本陣のところへいって鳥鍋で焼酎をのむ。本陣は少しばかりの焼酎に酔い猩猩みたいになって 「先生 もう舟がこげません」 という。(以下略)。
[『銀の匙』は幼少時から関わりがあったが、特に親しくなれなかった女性たちの思い出を綴っているが、この日記でも、尼僧であったり、歯朶を背負った若い女性であったり、似たような思いが軽く触れられている。戦前の青年はいささか単純でロマンチックだったようだ]
次回は、池の平そのほかあちこちにある明治の歌人与謝野晶子の歌碑について書いてみたい。雪の来る前に調査がまにあうかどうか心もとないが・・・。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
【中勘助と弁天島】執筆:三島憲一
東京方面から野尻湖に来るときには、旧18号線のかつては信号のあった野尻の交差点を右折して湖畔に向かう。右折するとじきに右側に郵便局。その少し手前を右に曲がれば、以前に紹介したナウマンゾウの博物館がある。郵便局から道路を隔てた反対側には公民館とその大きな駐車場ないし公園がある。40年前の1980年代にはこの広場で盆踊りが催されていた。国際村からの外国人も含めてものすごい人が集まり、熱気だけで汗びっしょりになったものだが、今ではひっそりとほんの数人が踊ることがあるほどになってしまった。
盆踊りが盛大だった頃には気がつかなかったが、この広場の角の、湖畔道路に出るところに小さな石碑がある。石碑には中勘助(1885〜1965)の次の詩が記されている(写真参照)。
ほほじろの声聞けば
山里ぞなつかし
遠き昔になりぬ
ひとり湖のほとりにさすらいて
この鳥の歌を聞きしとき
ああひとりなりき
ひとりなり
ひとりにてあらまし
とこしへにひとりなるこそよけれ
風ふき松の花けぶるわが庵に
頬白の歌をききつつ
いざやわれはまどろまん
ひとりにて
ほおじろや松の花という言葉からして、春から初夏にかけて、季節の良いときなのに、それでもこの詩人は孤独と寂しさを歌っている。若き日の恋を思い起こして歌うイブ・モンタンのシャンソン「枯れ葉」は文字通り秋から冬の風景のなかに思い出と悔い(Les souvenirs et les regrets)がほの甘く忍び込んでいるのだが、中勘助のこの13行の詩の場合は、暖かい季節に昼寝つきでの孤独。達観なのか、いっそうきびしいさびしさなのかよくわからないところがある。ネットで検索すると、これに曲をつけて西南学院のグリークラブが歌っているものもある(https://www.youtube.com/watch?v=uduEdqIQs4Q)から、それなりに有名らしい。
それではなぜ、こんなところに中勘助の詩碑があるのだろうか。謎はその石碑のすぐとなりに立つ小さな木製の板に書かれた文言を見ればわかる。そこにはこうある。
「小説「銀の匙」で知られる中勘助は、静養のために明治四十四年(一九一一)の八月に野尻湖を訪れ、九月二十三日から二十五日間にわたって、湖中の琵琶島で島篭りをしました。
「銀の匙」の前編は翌年再び訪れた野尻湖で執筆されました。
「ほほじろの聲」は大正十三年(一九二四)五月五日に、野尻湖での生活をなつかしく思い出して作られた詩です。この詩碑は公民館の完成を記念して昭和四十八年(一九七三)に建立されました」
なるほどなるほど。さびしく島篭りをしていたのは秋だが、13年ぶりに野尻湖を再訪したときはほおじろが鳴き、松の花が見える5月だったということだ。5月に再訪してかつてのさびしい秋の生活をしのんだということだろう。
ところで明治後期にわたしたちの野尻湖の琵琶島ないし弁天島での島篭りは近代日本の文学や思想に記念碑的な意味を持っていたようだ。明治36年(1903年)には岩波茂雄(1881〜1946)が夏休み四十日のあいだ哲学書を持って琵琶島にこもった。一高で同級で、のちに漱石門下の四天王と言われた安倍能成(1883-1966)も数年後に同じことをしている。岩波書店の創設者として有名な岩波茂雄は信州は諏訪の出身だが、明治36年5月、一高の同級生の藤村操が華厳の滝に飛び込んで自死した有名な事件に衝撃を受けて、弁天島に篭ったと言われている。人生に煩悶する「煩悶青年」という言葉が流行った時代だ。「人生の意義はなんぞ?」などという今の学生とは無縁の問いに悩んでいた。ほとんどの同級生はほどなくして「人生の意義は出世による金と権力にあり」と悟ることになるが、その道を歩まなかった人たちも多かった多感な明治の青春だ。
藤村操が飛び込む直前に傍の樹木の皮を剥いで書いた「岩頭の賦」はその後も人口に膾炙した。「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今・・・萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を抱いて終に死を決するに至る・・・」。岩波も藤村も安倍も一高の英語の先生は夏目漱石だった。この事件は、漱石の作品でも各所で触れられている。
中勘助も同じく一高で彼らと同級だったが、弁天島に籠ったのはその八年後だから、もういい大人だ。彼は二回籠もって、特に二回目は『銀の匙』の前編を執筆したとされている。前編が全体の大部分だから、要するにここで『銀の匙』を書いたと言っても差し支えない。当時は祭礼の時に来る神主さん用に宿舎があったらしい。
あまりにも有名なので、『銀の匙』の中身を紹介する必要もないと思われるが、それでもちょっと触れておこう。野尻湖で書いたのに残念ながらこの湖や村のことは出てこない。この作品は、子供の頃から病弱のうえに人見知りで、周囲に馴染めない語り手の、いわば幼児から学校生活までの回顧談だ。そしてクラスの女ともだちや裏の家の「お嬢さま」と遊んだ話、病弱の自分の相手をしてくれた伯母さんの話、最後は葉山の友人の別荘で出会った「美しい人」との話、どの女性とも淡い思いだけで別れる話である。特に法事に帰ったきり、病を得て戻ってこなかった伯母を彼女の故郷の名古屋に訪ねる話は、明治の薄幸だが、思いやり深い女性の信心に心打たれる。
主人公(中勘助本人と思われるが)は生まれた場所が悪かった。神田のど真ん中だった。「私の生れたのは神田のなかの神田ともいうべく、火事や喧嘩や酔っぱらいや泥棒の絶えまのないところであった。・・・私のような者が神田のまんなかに生まれたのは河童が砂漠で 孵ったよりも不都合なことであった」。
ガキ大将に取り巻かれいじめられるのはあたりまえ、そのたびに庇ってくれる同居の伯母さん。
やがて親は心配してがさつな下町を離れて山手に越す。山手といっても神田から歩いていける小石川の小日向台だ。小日向台といえば、今はかなり立て込んでいる住宅街だ。都心に近い割には静かな方だが、当時、つまり明治20年代から30年代は文字通り「片田舎」で畑や茶畑が家々の間に広がっていたらしい。
「このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静かに住んでいる。おおかた旧幕臣から代々住み続けてる士族たちで、世がかわって零落はしたがまだその日に追われるほどみじめな有様にはならず、つつましやかにのどかな日をおくってる人たちであった。それに人家もすくない片田舎のことゆえ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあつてお互に心やすくしている。朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があつて果樹など植えられ、屋敷と屋敷のあひだには畑がなくば茶畑があつて子供や鳥の遊び場になつてゐる。畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない」。「杉や榎や欅などの立ちならんだ崖のうえから見渡すと富士、箱根、足柄などの山山がこうこうと見える」
現在の小日向台から(マンションの屋上からはいざ知らず)富士、箱根、足柄などは、夢のまた夢だろう。
そこでの生活を今読むとまさに明治の風物詩だ。金平糖や肉桂棒のようなお菓子。伯母がよく連れて行ってくれた大日様は妙足院のことで今でも存在している(写真参照)。それに子供たちが遊びに合わせる歌。「ひ〜らいた ひ〜らいた なんのはなひ〜らいた れんげのはなひ〜らいた・・・ひ〜らいたとおもったらやっとこさとつ〜ぼんだ」。「か〜ごめ か〜ごめ か〜ごんなかの鳥は・・・」「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしゃ若いな・・・」。
一部は私の世代でも知っている。
手毬をつきながら「おねんじょさま」を一緒に歌った裏の家の綺麗な「お嬢さま」の薫ちゃんは、父親がなくなったために、家族と国へ帰っていく。引っ越しの朝挨拶に来たのに、照れ屋で人見知りの私は素直に「さよなら」も言えずに、部屋から玄関に出てこない。そんなタイプの少年だった。
こうしたほのかな別れの話ばかりの作品だが、それでも主人公はいつまでも虐められるのが嫌で猛烈に勉強してクラスでトップになる。天邪鬼でもあるから知力を使って先生とも論争をする。日清戦争がはじまると「日本人には大和魂があるから必ず勝つ」という先生や級友に対して、『史記』や『十八史略』も知らない先生を軽蔑しながら論争を挑む。「中国が勝つに決まっている」と。「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば支那にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈った話をして敵を憐むのが武士道だなんて教えておきながらなんだってそんなに支那人の悪口ばかしいうんです」。
引っ込み思案にしては堂々たる議論だが、その後の中勘助の人生もできるだけ国家や政治、そして自分の家にはかかわりたくないという放浪の人生だった。「ほおじろの歌」でも「とこしへにひとりなるこそよけれ」と歌っているとおりだ。その彼が最も嫌ったのは立身出世を目指す長兄だった。実際に長兄はドイツに留学し、九州帝国大学の医学部助教授にまでなった。勉強に優れ、柔剣道も強く、同じことを弟に強要する兄を主人公は「地獄の道連れ」と思って我慢し、憎み、素知らぬふりをする。しかし、兄は出世街道の途上、脳溢血に倒れ、その後亡くなるまでの長年月、中勘助は兄嫁と一緒に世話をした。嫁いで来ても結局は夫を二十年間世話することになったかわいそうな兄嫁を「明治の人柱」と形容している。長兄が倒れても家督を継ぐのを長いこと拒否して放浪の旅を重ねていた。兄が亡くなったのは、中勘助が五八歳で結婚する日の早朝だったが、勘助はそのことをお嫁さんにも客人にも告げず、平然と結婚式をあげているほどだ。
ところで今では受験で有名な灘中および灘高校の名物の国語の先生だった橋本武は、中学一年生の国語の授業を担当すると来る日も来る日もこの『銀の匙』を教材に使った。持ち上がりで中三までこの教材を使った。授業中は明治日本のさまざまな問題へと脱線もし、最後には子供たちにも自分の思い出の作品を書かせた。結果として当時はまだ無名の灘中学から灘高校に進学した生徒たちは、六年に一度、大量の東大・京大合格者を出して、同校がいわゆる名門校になるのに大いに寄与したとのことだ。橋本氏に言わせると、明治の東京の風物詩を描いた日本語が抜群にいいし、地名や風俗習慣を考証させるのにも適している。さらにここに出てくる漢字をマスターすれば、平均的日本人の漢字の読み書きの能力を大幅に上回る。それに各章の長さが新聞連載だったこともあって授業に適しているというのだ。このニュースレターの読者で受験期のお子さんやお孫さんがいる方は、『銀の匙』の精読を勧めてみれば、善光寺に合格祈願のお札を納めるより効果があるかもしれない。
『銀の匙』の原稿を中勘助は恩師の夏目漱石に送ったところ、漱石が激賞し、朝日新聞に紹介し、新聞連載となり、その後ベストセラーとなったそうだ。牛込の漱石からしても、明治の東京がなつかしかったのかもしれない。漱石の作品とともに岩波書店のドル箱となり、小日向の家も、一高時代からの友人の岩波茂雄に買ってもらっている。
このように明治の市井の生活とその中の薄幸の女性たちへのほのかな思い、出世街道と軍国主義の拒否という『銀の匙』は、野尻湖で書いたのに野尻湖は出てこない。だが実は、中勘助は弁天島に最初に籠った時に、お篭り日記を書いている。『島守』という作品で、ネットの青空文庫でも岩波文庫でも読める(岩波文庫は『犬』という別の小説と一緒)。
弁天島に篭る前の数日は旧道沿いに今でもある安養寺に世話になっていたようだ。東京に戻ったあと、安養寺の住職藤木氏に宛てたお礼の手紙が残っているそうだ。そして島にこもって半ば自炊の生活をしていたが、食料を運んだり、郵便を持ってきてくれたのは本陣の当主だった。それ以外にも「池田さん」という人が身の回りの世話に来てくれるが、それが本陣の当主と同一人物かどうかはわからない。
湖水で米をといで薪を集めて飯を炊き、鍋で粗末な煮物を作って食べ、鍋釜茶碗も湖水で洗う生活だった。澄みきった湖水を通して泳いでいる魚が見える。池田さんがとれた鯉をもってきてくれたこともある。私たちも馴染みの野尻湖の描写を読んでみよう。書き出しはこうだ。
「これは芙蓉の花の形をしているという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしたすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖の中に蟠ったこの島さえがよくも根こそぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる」。
こういう文章もある。
「[九月]二十四日・・・なにをするともなく夕がたになった。きょうは夜になるのが寂しい。その夜の闇のなかにひとつぶの昼の光をとめておくような気もちで島の背を燈明をともしにゆく。落葉の音や木立ちにひびく自分の足音をききながら石段をおり燈明をともしてなにということもなく眺めている。燈明の影が水にうつる。その水底には幾年となく落ちかさなった枝、そのうえを小さな魚の子のゆくのが透いてみえる。かれらはまことに天から生みおとされたかのように処を得がおである。きょうは曇り。飯綱にも黒姫にも炭焼の煙がたつ。煙が裾曳くのは山颪であろう」。
「[一〇月]二日。[朝]食後、桟橋へでる。斑尾の道を豆ほどの荷馬がゆき、杉窪を菅笠がのぼってゆくのは蕎麦を刈るのであろう。そのわきには焦げ茶色の粟畑とみずみずしい黍畑がみえ、湖辺の稲田は煙るように光り、北の岡の雑木の緑に朱を織りまぜた漆までが手にとるようにみえる。妙高、黒姫も峰のほうはいつしか黄葉しはじめた。曳かれてゆく家畜のように列をなして黒姫から飯綱へかけ断続した朝の雲がゆく」。
「[一〇月]十一日。午後。晴。浜におりて芋を洗う。夕。落葉をひろう。三つ四つ。妙高、黒姫、飯綱の嶺にさらさらと初雪がふってきのうまで恐ろしげにみえた山の姿がなつかしやかになった。なごりの雲がさりがてにたゆたっている。水のそこにすいてみえる筌のなかへ小さな魚がしずかにくぐってゆく。彼はただ一夜だけれどもこの島の岸ベにかかる安住の宿を見いだした」。明治の頃の「彼」の使い方の勉強にもなる。当時は「彼」と「彼女」の区別もなかったし、魚などにも使った。受験に役立つわけだ。
それ以外にも南風が午後から北風に変わるさま、妙高、黒姫にかかる霧が次第に湖上にまで立ち込めてゆくさま、対岸の人家の明かりなど、今でもおなじ景色が巧みに描かれている。大きく違うのは、炭焼きの煙だ。今では想像する以外にない。また、刈り入れが終わると温泉に行くのを楽しみにしている村人の話もある。
この作品はもう版権がきれているはずなので、次回は少し長めに引用かつ紹介して、地名などの考察もしてみたい。次号はちょうど秋なので、好都合だ。だが、今回の紹介を終わるにあたって本稿の冒頭に戻りたい。
冒頭に引いた石碑の裏に回ってみると、建立の経緯が石に彫られている。グリーンタウンに関係のある記載があるので、それを紹介して終わりとしたい。
「野尻湖公民館造園」の完成を記念してこの碑を建てる。
昭和四十八年十一月
信濃町
野尻区
造園協力者
野尻湖観光開発株式会社
株式会社デベロッパ信州
高島達雄
株式会社サンコープ
三栄興業株式会社
嗚呼!諸行無常とはこのことか!中勘助が浮き世を嫌ったのもわかるというものだ。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
【黒姫童話館とミヒャエル・エンデ】 執筆:三島憲一
ドイツの童話作家ミヒャエル・エンデ(1929-1995)の『モモ』を読んだ方は多いだろう。あるいは、読んでいなくても、名前ぐらいはどこかで聞いたことがあるはずだ。岩波少年文庫に納められているこのメルヘンはなんと三百万部に達しているそうだ。
町外れにある大昔の円形劇場の廃墟に住み出したモモは、孤児院の窮屈な生活からの脱出者。彼女の周りに集まってきた居酒屋のニノ、観光ガイドのジジ、道路掃除夫のペッポ、そしてたくさんの子供たちが、灰色の服を着た時間泥棒と戦う物語は、せかせかと生きながら、決して豊かな生活になれず、ますますせかせかせざるを得ない現代人への警鐘だ。ドイツで出版された1973年以降、子供にも大人にも読まれ続けている。
知っている方も多いでしょうが、なんとこのエンデの遺品のほとんどが黒姫童話館に納められているのだ。
黒姫童話館は、1991年のオープンから30年、グリーンタウンのメンバーで行かれた方も多いはず。黒姫スキー場に向かって左側の小高い丘の上に立つ、一見ロマネスクの修道院みたいな(しかし、決してロマネスクではない)、それなりに優美な建物だ。入り口の前の傾斜地には、石が段状に按配され、モモの住む円形劇場がミニアチュア風にセットされている。
そのあたりから振り返ると、左上に黒姫山、正面に妙高山、右に顔を回せば斑尾山、そして野尻湖 の谷が広がる。夏空に雲が流れ、麓にはコスモスが咲き誇る。そしてすがすがしい高原の風。
かつては牛が草を食んでいたスキー場のあちこちには森が見え、どこかバイエルンのオーストリア国境地域を思わせる。バイエルン出身のエンデがこの風景を気に入ったのもわかろうというものだ。
中に入ると島崎藤村からはじまって信州にゆかりのある童話作家(藤村が童話を書いたことがあるとは知らなかった)、例えば塚原健二郎や坪田譲治に関する展示もあれば、この童話館創設のきっかけにもなったいわさきちひろや松谷みよ子のスペースもある。
しかし、なんといっても圧巻は、ミヒャエル・エンデを偲ぶ展示だ。彼の作品『鏡の中の鏡』をモチーフにしたらしい合わせ鏡の迷路を通って目がくらくらしながらエンデの展示スペースに入ると、そこには詳しい年譜をはじめ、幼少時の写真、高校の卒業演劇のスナップ、『モモ』や『ジム・ボタンの機関車大旅行』『果てしない物語』などの数多の作品、挿絵のいくつもの原画、使っていた文房具などじつにさまざまな品物が展示されている。壁にはところどころにモモのシルエットがかかっていて、いったいこの館内にはなんにんのモモがいたことでしょう、というクイズを入り口の方から戯れに宿題としてもらうこともある。
なかのカフェーも「時間どろぼう」という名前だが、これは時間泥棒への戦いを励ます意味でつけたのだろう。
モモの周りの人々が次から次へと時間泥棒の巧みな誘いに引っかかる。あなたの人生に残っているのは、あと何億何千何百万何千何十秒、道路掃除にかける時間を一回あたり二百秒減らすだけで、人生これだけ儲かりますよ、とまるで保険の勧誘でもあるかのように。そして時間倹約の契約書にサインすると、その時間は勧誘員の灰色の男たちの時間貯金に回され、かれらはこうして詐欺的に略取した時間を食べて生きることになる。契約書にサインした人たちは、せかせかと暮らしだし、仕事の能率はよくなるが、なんとも潤いのない生活となる。その毒は彼らの周囲にも及ぶ。
例えば居酒屋のニノだが、会計のときに客と無駄話をして仲良くすることもなくなり、日毎に無愛想になる。ゆっくりした郊外の飲み屋だった彼の店は、時間倹約のおかげで儲かりはじめ、能率中心のファーストフードの店へと模様替えし、客は盆を持って並び、思い思いにバイキング形式に皿に食事を取り、最後にレジで支払うようになる。途中でおしゃべりでもしていようなら、後ろの客から「早くしろ」とどつかれる。
だが、そこに胡散臭さを嗅ぎ取ったモモは仲間を募って灰色の男たちとの戦いを試みる。彼ら、つまり灰色の男たちもモモを捕まえて「処分」しようとする。他の人々は皆、勧誘に負けるのに、モモだけは負けないからだ。そしてモモが持つ不思議な特性、つまり誰も彼女に本音を喋ってしまう特性に負けて、灰色の男の一人が、時間泥棒の計画をしゃべってしまう。時は金なり、お前たちから奪った時間で俺たちは生きているのだ。表向きはお前たちの生活の能率化のようなことを言ってるが、本当は俺たちのためなんだ、と。
現代の生活がますます便利になるのは嬉しいが、それに応じて自分の時間が減っているだけだ。いったいどこかにわれわれのあくせくのおかげで密かに得をしている連中がいるのではないか、などと考えたことのある人は多いはずだ。われわれの生活を忙しくしているシステムは、銀行であったり、コンピュータ技術であったり、お役所や工場であったりするかもしれない。長野が新幹線につながってうれしがっているうちに、昔なら出張で宿泊してくれた人が今は日帰りで帰ってしまう。長野の商店街は斜陽化する。いわゆるストロー効果だ。権堂の飲み屋で働いてなんとか食べていけた人も、結局はかけもちでもうひとつの仕事をしなければ生きていけなくなる。どこかにいるわれわれの敵、それが時間泥棒というわけだ。どうやら「時は金なり」では必ずしもないようだ。
ところで「時は金なり」という言葉は、アメリカ独立にも寄与したベンジャミン・フランクリンの文字通りの金言だ。「金」になる言葉という意味でも金言だ。20世紀初頭にドイツやイギリス、そしてアメリカでの資本主義の発展の秘密を解き明かそうとした有名な社会学者マックス・ヴェーバーは、まさにこの「時は金なり」こそ資本主義の要諦と看破した。翻訳も幾多ある『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という名著でのことだ。その意味ではエンデの『モモ』は、まさにこの「時は金なり」への反抗という、それもまだそうした能率万能の世界に取り込まれていない子供や下層の人々による反抗という童話だ。
なんでも楽しい物語を発明するジジも、時間泥棒と契約をしてしまった。すると、話を簡単に作る術を覚え、ラジオ、テレビからひっぱりだこになる。過去に作った話を適当に組み合わせ、新しそうなインチキ童話や物語を作れば作るほど、ますます有名になる。誰も、その話が昔のそれの二番煎じや組み合わせであることまで調べて批判する「時間」がない。そして飛行機や宿の手配を全部してくれる美しい3人の女性秘書がジジの専用車の後部座席で彼の仕事ぶりを見張っている。
古代の円形劇場の遺跡といい、ニノの居酒屋といい、どこかイタリアの、それもローマ郊外を思い起こさせる。時間を節約して金持ちになったニノやジジが引っ越して住む高級住宅街もローマの新興住宅街を思わせる。実際にミヒャエル・エンデは能率的だが、どことなく情感の薄いドイツの生活への批判から、長いことイタリアで暮らし、そのイタリアへの感謝の思いからこの童話を書いたそうだ。
最後には時間の主人マイスター・ホラ(「ホラ」はホラ吹きのホラではなく、時間という言葉のラテン語、英語のhourにあたる)と彼の使者である亀のカシオペイアの助けを得ながら、モモは知恵を使って灰色の服の男たちの軍団を滅ぼす。彼らは一瞬の煙となって消えてしまう。その途中で出てくる「逆戻りの廊下」やマイスター・ホラの時間宮殿で渦巻の中から時間の光が湧いてくる光景などは、映画で見てもそうだが、かぎりなく幻想的で美しい。エンデはドイツに強かったマルクシズムなどの社会改革の運動が嫌いだった。学生運動の革命ごっこは欺瞞と見ていた。本当の改革は考え方の変革から出てくる、それは夢や幻想から始まる、という考え方だった。こうした考えからか、環境問題には大きな関心を抱いていた。『モモ』やその他の作品は揺籃期のドイツの「緑の党」の人々に広く読まれた。メルケル首相が原発廃止の決定をするのに大きく寄与した党である。
こうしたエンデの思想は20世紀初頭のドイツの思想家ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の人智学に学ぶところが多かっ た。ヴァルドルフ学校という、シュタイナーの作った自由学校運動は今では世界中に広がっている。日本ではシュタイナー学校とも言われている。シュタイナーが考案したオイリュトミー舞踏のことを聞いたことのある方も多いだろう。なにやら難しげに聞こえるが、「オイ」はギリシャ語の安楽や幸福や善を意味する言葉なので、「幸福リズム」とでも言えば実感がわくかもしれない。宇宙との交感を身体で受け止め、こころとからだの分裂を越えた一体感を得るための舞踏だそうだ。
どれだけ効き目があるかはしらないが、日本でもコースがあちこちで開かれているようだ。 ドイツで緑の党が強く、そのゆえに原発廃止が実現し、メルケル首相も元来は保守系なのに、クリーン・エネルギーを強力に推進していることは広く知られているが、その元祖の緑の党の草創期の人々には、その後外務大臣を長く務めたヨシュカ・フィッシャー氏をはじめ、このシュタイナー学校での薫陶を受けた人々が多い。その意味で、政治嫌いのエンデの作品もいろいろな意味で政治的な影響力を持ったようだ。
実はこの黒姫童話館にエンデの遺品が大量に納められているのには、信濃町からの働きかけを取り次いでくれた、子安美智子早稲田大学教授(1933~2017)の取りはからいが大きい。留学時代に小学生のお嬢さんが通ったシュタイナー学校の経験を記した彼女の『ミュンヘンの小学生』(中公新書1975年)は、ベストセラーになった。このシュタイナー教育との関連でエンデと知り合っていた子安さんは、もともと日本の文化に興味を抱いていたエンデが来日するたびに案内役をしていた。
1989年の春に来日したエンデを東京のホテルに訪ねたのが、信濃町役場の企画室に勤務しておられた山形一郎氏だ。氏は、その後黒姫童話館の主幹を務められた。エンデの通訳などもされていた子安美智子氏をいきなり訪れて、童話館の企画を詳述し、是非エンデ氏のスペースも作りたい、会わせてくれないかと、やがてエンデ氏にも見せることになる現場の航空写真なども使って熱心にお願いしたとのことだ。
しかし、山形氏が子安氏、そしてエンデに面会したのにはもうひとつ理由がある。黒姫に別荘を持っていた北欧文学の研究家で『ムーミン』の翻訳者である山室静(1906~2000)氏を訪問して、童話館のアイデアを相談した時に山室氏から「エンデは欠かせない」と言われて、にわか勉強をしたとのことだ(この辺のことは、童話館の『童話の森通信』10号の山形氏の回顧談に詳しい)。そして子安氏が山形氏の熱意をこれまた熱心にエンデに取り次いだところ、全面的に応援するとの快諾をいただいたとのこと。信濃町の町長さんに宛てた快諾の手紙も童話館に展示されている。
ちなみに前のドイツ人の夫人を亡くしていたエンデは、この1989年の4月に佐藤真理子氏と結婚しておられるので、日本との結びつきが強まったことも働いているかもしれない。しばらくして、エンデ自身が新婚の奥様ともども黒姫童話館を訪れたときの写真も展示されている。
実は、この子安さんは、年齢は少し上だが、筆者の学生時代からの友人で、その後も折にふれて会う機会が多かった。元気のいい、闊達な方だった。ご主人で日本思想の研究家である子安宣邦さんとは同じ大学の同僚で一緒にお仕事をさせていただいたこともある。
山形氏の文章によるとエンデを東京の宿に訪れたのが、1989年4月14日だそうだが、実はその数日前に筆者は頼まれて、岩波書店が当時熱海に持っていた別荘の惜櫟荘でエンデと大江健三郎の対話の司会と通訳を務めたことがある。これはNHK教育テレビで放送された。環境問題、自然と人間の関係そのほかをめぐっての対話だった。
このままで行くと温暖化で地球が破壊されるばかりか、人々が忙しさの中で人間性を失っていくと述べておられた。
30年も前の慧眼だ。そのエンデさんが対話の後の飲み会で、イタリアの生活を楽しそうに話していたのが、今でも思い浮かぶ。でも、その彼が実は結婚を数日後に控えていたことは教えてくれなかったし、この対話の数日後にやがて筆者も別荘を持つことになる信濃町の役場の方と会うことになるとはもちろん、考えもしなかった。不思議な縁だ。
なお、童話館には、エンデの手紙や原稿やメモ、またエンデの父が画家だった影響もあって、自らも描いたさまざまなスケッチや図案合わせて2千点以上が納められている。
展示されているのは、そのごく一部。残りは筆者も見ていないが、一般にドイツでは作家や思想家は、遺族が原稿や書簡など関係書類をひとまとめにして南ドイツの小さな町にある国立文学資料館に寄贈するのが普通だ。それをせずに、わざわざ信濃の山奥、越後との県境の山のミュージアムに寄贈してくれたのだから、大変なことだ。ドイツでのエンデの研究家は、資料調べに日本まで来なければならないことになった。
エンデは1995年8月になくなったが、その一周忌はミュンヘンの墓地の会堂で仏式によって執り行われた。司式をしたのは自ら僧侶の資格を持つドイツ人で早稲田大学教授だったクリストリープ・ヨープスト氏だった。日本語で「雄峰」の称号を持つ彼も、ナチスにいじめられた父親の影響もあって子供の頃からシュタイナーの人智学と仏教に興味を持っていたそうだ。これも不思議な縁だ。
東西交流の証でもある、そういう貴重な施設がわれらが信濃町にあるのだ。ゆったりした稜線を見ながら、時間泥棒に襲われない静かな散策の途上で是非なんどもおとずれていただきたい。そもそもわれわれがグリーンタウンを訪れるのは、時間泥棒からひとときでも逃げるためでもあるのだから。
(本来この記事は前号のために書くはずでしたが、新型コロナ・ウイルスの影響で、黒姫童話館もしばらく閉鎖されていたため、のびのびになりました。だいぶ前の見学のうろ覚えで書くわけには行きませんでした。今回訪れたら、畏友の故子安美智子さんの胸像も展示されていて感無量でした)
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
【「舞踏会の手帳」と野尻湖】執筆:三島憲一
戦前のフランス映画『舞踏会の手帖』を覚えている方はもう少ないかもしれない。それでも、伝説の名画としてテレビなどで繰り返し放映されていたので、見ておられる方もそれなりにおられるのではないだろうか。見た方は、北イタリアのコモ湖畔に立ち並ぶ豪邸のイメージが残っているはずだ。一階のサロンから、大理石の階段が数段、直接水面に達している。階段の同じく大理石の手すりには花の溢れる植木鉢。その横のテラスでは着飾った男女がグラスを傾けながら談笑。湖上のヨットのはるか向こうにはアルプスの山々が見える。ヨーロッパでも最も美しい地域での我々庶民には無縁の世界だろう。映画は、舞踏会にデビューした16歳のお嬢様クリスティーヌの手帳に「あなたをいつまでも愛します」と偽りの誓いを書き込んでくれた10人近くの踊りの相手を20年後に探し当て、訪ねて行く話。気のそまない結婚をした金持ちの亭主が(幸いにも?)亡くなったあとのこと。探し当てた相手は、神父になっているのもいれば、アルプスのガイドもいた。犯罪者もいる。田舎町の町長になっていたもう一人はたずねあてたその日が彼の結婚式。自殺者もいた。風光明媚なコモ湖と豪華なヴィラの裏の現実は結構侘しいものがある。それでも全編に流れる舞踏会のロマンチックなワルツと相まって、一昔前の世界が蘇る。
ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のこの映画が作られたのは、1937年、つまり昭和12年のことだ。前にこの「グリーンタウン通信」でご紹介した堀辰雄夫妻の晩夏の野尻湖来訪と同じ年だ。ドイツではナチスが台頭し、1939年9月に始まる第二次大戦の暗雲が地平線に湧き上がり出していた頃だ。日本でもすでに満州事変から日中戦争と、世間は暗かった。そんな時期に、過ぎ去りつつあるヨーロッパの華麗な世界、多くの人が憧れたその世界と人生の哀感を兼ねあわせたこの映画は、日本でもものすごい観客動員数だったとか。そもそもこの監督は日本では圧倒的な人気があって、フランスの映画研究者もおどろくほどとのことだ。
湖畔に大金持ちの邸宅が並ぶコモ湖とわたしたちの野尻湖では、この次元では比較にならない。湖としても琵琶湖よりも大きい。近くのラゴマジョーレと並んで、ヨーロッパでも最も美しくかつ華麗なところだ。とはいえ、堀辰雄の文章もそうだったが、まだまだ貧しかった日本では、野尻湖の国際村の外国人たちの生活がまだ見ぬヨーロッパを連想させたようだ。いつだったか『信濃毎日新聞』に戦前に国際村の外国人の家に女中さんとして働きに行っていた地元の女性が、彼らが午後のお茶に食べていた自家製のケーキのはなやかさにたまげた話が出ていたが、そのとおりだったろう。記事の最後には、今では地元でも買える洋菓子を、今度は外国人の宣教師が円高で「高くて買えない」と嘆いているおちがついていたが。
脱線したが元に戻そう。湖畔の外国人の生活と対岸にあった野尻湖ホテルの様子をコモ湖に見立てて、1941年の秋に来訪した文学青年がいた。堀辰雄を師と仰ぐ、加藤周一だ。ままだ東大医学部の学生だった。その後は、戦後早くヨーロッパに留学し、英語、ドイツ語、フランス語を自由に操り、ブリティッシュ・コロンビア大学、ベルリン自由大学をはじめ各地の有名大学でも教える一方、文芸評論家として活躍しながら『日本文学史序説』の大著をものし、外国では「普遍的天才」と言われることになった彼だ。朝日新聞に長く連載していた『夕陽妄語』はドイツ語訳もある。
その彼に、映画『舞踏会の手帖』と野尻湖ホテルについて記した文章があるので、少し長いが引いてみよう。くだんの映画が作られた4年後の1941年(昭和16年)の12月末である。すでにドイツ軍はパリを落としており、デュヴィヴィエ監督はアメリカに亡命していた。
「私は二三年前に一度見たフィルムを、場末の映画館で見た。・・・私の青春を探す旅と[主人公が]云っている。・・・豪華なシャトオの内部。肘掛椅子の女。カメラは退き、回転し始める。柱、ピアノ、窓、湖、庭園と噴水。湖とそれを囲む丘は、急に野尻湖の秋を呼びさます。今年の初秋、私はホテルの見晴し台にひとりだった。湖は空を映し、その深い藍色とヴェールのように漂う白い雲とを見つめていると、ヨットの歌声が昇ってきた。秋の丘は赤い屋根の家々を散りばめて、湖の向こうに、風景の奥に眠ってでもいるように、静かだった。その湖の色、その山の波、そのヨットのソプラノのトレモロ。私は一人でjeunessse(青春)と云う考えにふけったものだ。その考えの甘美さがふと野尻の風景とスクリーンのコモ湖と、折り重なって、浮かんでくる」(鷲巣力・飯田侑子編『加藤周一。青春ノート』人文書院270ページ)。
ここに出てくる「ホテル」とは、現在のレイクサイドホテルから周遊道路が急坂となって上り詰めた右側にかつて立っていた野尻湖ホテルのことだろう。対岸に「赤い屋根の」家々の国際村が見える。日本のホテルとしては数少ない藁葺き屋根で、中は西洋風の大きなフォアイエ、二階には暖炉が一隅にある、渋い板張りの見晴らしのいいサロンが目立つ。湖上や対岸の国際村のプロムナードから見ると木組みと白壁が素敵なホテルだった。加藤周一はそこに泊まっていたようだ。1919年生まれだから22歳。贅沢といえば贅沢だ。野尻湖ホテルは水面からだいぶ高いところにあるので、湖上のヨットの歌が本当に聞こえてくるものかどうか。それに私も野尻湖でだいぶヨットはしているが、ソプラノの歌など聞こえてきたためしはない。ダミ声で北欧の民謡らしきものを歌っている外国人の操るヨットとすれ違って手を振ったことはあるが。多少とも文学青年の創作のようだが、卒業旅行でヨーロッパに行くなど思いもよらない暗い時代に西洋へのロマンチックな憧れを国際村のヨットと重ね合わせたのは、無理もないかもしれない。かなり夢見心地だったのだろう。
このホテルは1933年(昭和8年)に国策として建てられた。満州進出などで逼迫する財政事情を踏まえて、外国人観光客を呼び込んで、外貨を獲得するべく苦肉の策で国が主導していくつかのいわゆる「国際観光ホテル」を作った。志賀高原ホテル、川奈ホテル、そして赤倉観光ホテルもそうだ。赤倉のホテルは、残念ながら1965年に火事で焼失している。どれも和洋を巧みにないまぜたスタイルで、雰囲気のあるものだ(野尻湖ホテルのかつての姿はネットですぐに検索可能)。しかし、出来あがった頃は、国際情勢が風雲急を告げていて、外国人も観光どころではなく、「武士の商法」ならぬ「官僚の商法」だったようだ。それでも戦後はそれなりに繁盛していたようで、1999年にグリータウンに家を建てたときに、私もサロンまで上がったことがある。素晴らしい風景だった。湖上のヨットからも目印としてよかったのだが、やがて営業をやめてしまい、紆余曲折の末、2003年春には取り壊されてしまった。跡地に立ち入って景色を楽しんでいた観光客に巨木が倒れて悲惨な事故となったのは、2016年秋のこと、まだ記憶に新しい。
加藤に戻ると、先に引いたノートが書かれたのは、1941年(昭和16年)末とあるから真珠湾攻撃の二週間ちょっとあとのことのようだ。彼は続けて書いている。「[最初に見た]三年前とは世界が変わった。デュヴィヴィエもおそらく二度とフランスでは仕事はできないだろう。彼の描いた人物たちの過去は、今やフランスの過去となった」(同書272ページ)。ちょっと気障だが、ナチスに潰されたひとつの時代を思うのは、わからないことはない。
加藤は信州を愛したようだ。自伝の『羊の歌』(岩波新書)には、学生時代に夏をすごし、疎開先にもなった追分の風物が、盛んに出てくる。軽井沢のテニスコート、浅間の風景、白樺の林など。しかし、残念ながら野尻湖は出てこない。先に引いた『青春ノート』の一節は、夏の軽井沢が終わってから、野尻湖に足を伸ばしたときのことかもしれない。加藤には他に『高原好日』と題した信州の思い出が信濃毎日新聞社で出ているが、筆者は今、外国にいるので、残念ながら見ることができない。ひょっとするとそこには野尻の思い出があるかもしれない。
そこで別の話題にしよう。映画『舞踏会の手帖』が作られ、堀辰雄夫妻が野尻湖に来たちょうどその頃、正確には夫妻の野尻来訪の二週間ちょっと前、野尻湖に滞在していたフランスの若い学者がパリの友人に手紙を書いていた。その一節を紹介しよう。
親愛なるビュオー様 野尻1937年8月1日
今、長野県にある野尻湖の岸辺であなたにこの手紙を書いています。時間がどんどん過ぎていきます。最も生き生きした印象は、するべき仕事のあまりの多さです。今晩、貴兄の質問一覧に目を通しているうちに、質問へのお返事というよりも、貴兄の研究室にいるかのような感じで、日本について少しお話をしたくなりました。
3ヶ月間東大の研究室と帝室博物館にいましたが、大きな問題の解決には至りませんでした。とはいえ、いくつかの細かい問題は解くことができました。そこでは見たかったものを見ることができました。つまり先史時代の発掘場所で見つかった材料です。少なくとも北の地域のそれです。すなわち骨、鹿の角、針、錐、環、模様のついた管などです。まだそこからいかなる結論も出すことはできず、専門家に色々と質問をしている最中です。唯一見ることができたもので、アイヌのものはきわめて曖昧です。私はこの問題に特に注目したいと思いますが、仕事は相当にハードです。アイヌの占める割合は、ご承知のようにちょっと目にはかなり薄く見えます。現在のアイヌは昔のアイヌの、それも間接的な子孫の子孫です。でももう少し様子を見てみようではありませんか。アイヌに北方の影響がどのくらいあるかという問題はアイヌを調べるだけでは解決できません。私が好きで集めてきた千島列島、カムチャッカ、アリューシャンなどのものが毎日豊かになっていることはたしかです。ひょっとしてあなたの研究対象のハイダ族(注:カナダのブリティシュ・コロンビアの先住民族。その集落と芸術はユネスコの世界遺産。特に細かい木彫で知られる)の水車に水をもっていけるかもしれません。
それであなたの質問に答えましょう。
住居について。まずは野尻の場所の大枠についてほんの少し話しましょう。穏やかな波の光が、繋がった部屋の中、そして暖炉のところまで反射しています。私は佐渡に近いところにいます。多分佐渡にも近いうちにいくことでしょう。
貝を模倣した石の細工について。お送りするのは帝室博物館の三つの絵葉書です。石の輪(一番目の絵葉書)は、確実にブレスレットでしょう。わたしもなんどかいじってみました。灰緑色の素材に掘ってあり、とても軽いです。第二の絵葉書にある他のものとおなじに、こうした品物は、北の方の青銅の地域と南の方の青銅と鉄の日本型タイプの混合地域の間で、青銅器とともに見つかったものです。
このあと専門的な話が続くので、引用は、この辺にしておこう。専門的な話とは、この手紙の筆者のフランスの人類学者が当時集中していたアイヌの起源の問題で私には手に負えない。この手紙の筆者は、アンドレ・ルロワ=グーラン(1911~1986)。のちにソルボンヌやコレージュ・ド・フランスの教授も務めたフランスを代表する天才的な人類学者の若き日のことだ。大学ではロシア語、中国語を収めていた。漢字が読めた以上、日本でも言葉は早く学んだことは想像に難くない。新婚の奥さんと一緒の日本留学は日本政府の基金で、滞在中は主として京都の日仏会館に住みながら、信州、北海道、そして当時の東京帝大を行き来していたようだ。信州では、避暑がてら野尻周辺の遺跡や風俗を研究していた。死後だいぶ経って出た『日本についての忘れられた紙片Pages oubiées sur le Japon』(2004年)という滞日ノートには、野尻湖の弁天島の宇賀神社の祭り、桟橋に立ってお祓いをする神主さん、盆踊り、野尻周辺の庚申塚などの写真がたくさん掲載されている。中でも立ち並ぶ古民家の写真などは、そのほとんどがなくなってしまった今では、貴重なものだ。ドイツの友人の家の書棚に目を走らせていたときに、なんとなく表題に惹きつけられて開いたこの本の最初のページが、野尻湖からの手紙だったのに驚いたのは、もう5年ほど前のことだ。「穏やかな波の光が、繋がった部屋の中、そして暖炉のところまで反射しています」だけでは、どこに滞在していたかは、残念ながらわからないが、野尻湖ホテルだった可能性もそれなりに高そうだ。
ルロワ=グーラン氏は独仏開戦前にパリに戻り、戦争中はフランスの対独レジスタンスに参加し、戦後はその功績でレジオン・ドヌール勲章ももらっている。人類の発展過程を書いたいくつかの書は、20世紀の古典というに等しい(一部だが翻訳もある)。その彼が、堀辰雄夫妻の来た1937年8月にやはり野尻湖に滞在し、日本の古い生活を調査していたのだ。数年後には若き加藤周一が来訪した。そして戦争が始まり、人類学者のルロワ=グーラン氏はドイツへのレジスタンスに加わってフランスの農村で銃を取り、加藤は、東大医学部の医局にあって空襲の負傷者の治療に昼夜兼行で働き(その辺りは『羊の歌』に出てくる)・・・と、それぞれ人生が分かれていくことになる。
冒頭に戻ろう。コモ湖畔のシャトーだかヴィラだか知らないが、豪邸群は今でも健在のようだが、住んでいるのは、有名なサッカー選手と映画俳優ばかりとか。一部はアメリカの名門大学の夏合宿の施設となっている。変わり果てたのは、舞踏会の踊りの相手と野尻湖ホテルだけではないようだ。過去は過去だから、回想されるのだ。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
【ナウマンゾウのナウマン氏とはどんな人?】 執筆:三島憲一
長野市といえば善光寺ならば、野尻湖といえばナウマンゾウだろう。グリーンタウンの方々ならば、野尻の郵便局の裏手にあるナウマンゾウ博物館に子供の頃に、あるいはお子さんやお孫さんといらしたことが一度はあるはずだ。数年に一度冬の渇水期に行われる発掘作業に参加した方も、おられるかもしれない。私も、発掘現場で関係者が一生懸命掘ったり、土砂をザルでさらったりしているのを拝見させていただき、お話をきかせていただいたこともある。ナウマンゾウを追いかけた野尻湖原人に夢を馳せた方もおられるかもしれない。今より寒かったらしいから、「縄文織の粗末な上着だけでさぞかし寒かったろう、よく生きていたな」とも。高速道路の出口近くの貫の木あたりにも、また清明台や照月台にも集落があったらしい。
とはいえ、ナウマンゾウは野尻湖の専売特許ではない。そもそも最初に偶然発掘されたのは横須賀、次に浜松だ。東京でも20世紀後半、浜町の地下鉄工事現場から出ているそうだ。野尻湖のものは、ナウマンゾウ博物館によると、敗戦の直後に地元の旅館の関係者が渇水期に偶然見つけたらしい。横須賀や浜松で出土した化石を見た、ドイツ人の地質学者エドムント・ナウマン(1854-1927)が、氷河期に日本海が歩いで渡れた頃にシベリアから来たマンモスゾウの亜種と断定して、ナウマンゾウと名付けた(学名はpalaeoloxodon namadicus naumanni。最後にナウマンさんの名前がついているところがミソ)。だが野尻のナウマンゾウ博物館でもナウマンゾウやその化石、当時の人々の生活については色々と説明があるが、当のナウマンさん自身についてはほとんど記述がない。
一般には、日本で地質学を創設したドイツの学者であり、なによりも糸魚川から富士川にかけての巨大地溝帯フォッサ・マグナの発見者と命名者ということが知られているぐらいだろう。大森貝塚を発見したアメリカ人の生物学者エドワード・S・モースとの競争と協力などについても聞いたことのある方もおられるだろう。
エドムント・ナウマン(1854-1927)は、ドイツはザクセン王国のドレスデンの近く、磁器で有名なマイセンで建築家の家に生まれ、ドレスデン工科大学で地質学や古生物学を学んだのちに、1875年にミュンヘン大学で郊外のシュタルンベルク湖の生態学的研究で博士号を取得している。滅多にもらえない「秀(summa cum laude)」の成績だから、よほど優秀だったのだろう。ちなみにこのシュタルンベルク湖は森鴎外の『うたかたの記』でルードヴィヒ2世(ヴィスコンティの映画でも有名だ)が身を投げた湖として出てくる風光明媚なところでもある。遠くに高い山をいただいて少し細長いところは野尻湖と似ていなくもないが、周辺はこちらよりもだいぶエレガントだ。なんでもドイツでも最も金持ちの多い地域のひとつらしい。まあ野尻湖周辺に芦屋の街が引っ越してきたと思えばいい(姉妹都市の可能性?)。
博士号取得直後に、地質学の教授を探していた在ベルリンの日本大使館からの要請を受けた自分の教授に「日本で就職はどうだろうか」と言われ、二つ返事で引き受け、2カ月後には日本行きの船に乗り込んだというから、よほど怖いもの知らずだったのだろう。なにしろ、鉄道網も整備されていない明治8年のことだ。滞在期間は10年におよぶ。それにしても若干22歳でいわゆるお雇い外国人教師として来日し、開成学校教授を経て東大教授となり、地質学教室を作り上げ、地質調査所(現在の独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)も創設したのだから大変なものだ。給料は年俸として金兌換可能な300円だったそうだ。少し前に来日し、同じ御雇外国人教師として東大工学部を作り上げたスコットランド出身のヘンリー・ダイアー(1848-1918)の年収が当時の次官を上回ったという明らかな証言があるから、同じようなものだろう。
彼らには皆自分なりの野心があった。ダイアーは、イギリスの現場主義的なエンジニア養成システムに不満を持っていて、ドイツ型の理論も入れた工学部を作る夢を持っていた。チャールズ・ダーウィンが提唱して始まり今でも有名な雑誌『ネーチャー』には当時、東大工学部の教育が世界で一番すごい、イギリスはここから学ばないと手遅れになる、という記事が出たほどだ(ご興味のある方にはPDFをお送りします)。大森貝塚のモースは、進化論の信奉者で、アメリカでは宗教的圧力でなかなか展開できなかった自説を自由に述べる夢を持って日本にきた。ナウマンも、まだ専門的にはなにも知られていない日本の地質構造などを研究して世界に打って出ようという思いもあったようだ。軍事的にも重要な鉄鉱石や石炭などの地下資源探索のエキスパートを探していた日本側ともうまくマッチしたようだ。
私なら22歳で次官の給料をもらう職にありついたら、夢かと思って毎日遊びほうけてしまうところだが、ドイツ・プロテスタントの職業倫理もあってか、ナウマンさんはものすごく勤勉に仕事をした。ほとんど全国を歩き回り、伊能忠敬のそれを上回る正確な日本地図を作り(図版参照)、かつあちこちの地層について、有り体に言えば地面について細かい研究をしている。踏破した距離は1万キロ以上と言われている。あとで引く文章からして旧北国街道を通って我々の地区から妙高あたりにも来たことは明らかだ。彼の論文は多くがネットで読めるが、私などが子供の頃「コンコン石」と呼んでいたさもない石が関東平野に分布しているのはなぜかについても研究している。彼の表現によれば「かんかん石」というのも微笑ましい。海底でできて盛り上がってきた安山岩の話のようだが、実際に私たちが子供の頃「こんこん石」と呼んでいたのは関東ローム層に関係している泥岩なので、本文からは素人の私にはよくわからないところがある。
地理にも詳しく、日本列島の構造を論じた論文では、私たちの野尻湖近辺の地形について次のような記述がある。「東経132度から136度の間の地域[これは西日本]に触れる前に、弓なりになっている日本列島を真ん中で古い山岳地帯を分けている地溝帯[フォッサ・マグナのことだろう]の近辺を詳しく見ておこう。オワリワン(伊勢湾のことか。図版を見ると伊勢湾と駿河湾から伸びる山脈が重要なようだ)から日本海にのびるもので、富士山、八ヶ岳、妙高山、焼山などは、これと関連して出来上がったものである」と書かれている。
そして、こうした山塊は海底火山からの造山運動でできたと記述されている。1884年(明治18年)のことだ。なにも知らない国に来て、今でも認められている発見をしたのだからすごい。まあ、ヨーロッパ・アルプスの造山運動などについて大学で勉強したことが役に立ったのだろうが。いずれにせよ、ナウマン象などはほんの余芸だった。とはいえ、先に触れた風光明媚なミュンヘン郊外の湖についての博士論文に、ある研究者によれば、すでに次のような文章があるのは、まさに野尻湖のナウマンゾウの化石の場所を予見したようなものだ。「遥か昔に島国では色々なものが食べられた結果、動物の骨やそれ以外の消化不能な部分は、結局は湖に、いわば台所のゴミのように流れ込んだに違いない」。ナウマンゾウの使えない部分を縄文人が湖水に投げたことは十分にありうるだろう。野尻の発掘現場でも料理場所の跡地だったと説明を受けたことがある。
妙高山や焼山の名前にも詳しいことや、そのほかさまざまな証言を総合すると、日本語もできるようになったらしい。そして、自分では日本の近代化を推進する側にいながら、日本がどんどん西洋っぽくなり、古い文化が失われるのを嘆いてもいたようだ。これは西洋以外の文化に触れたヨーロッパ人の典型的なロマンチシズムだ。自分たちが進出した結果起きた古い文化の消失を嘆くのだから勝手なものといえば、勝手なものだ。とはいえ、帰国してだいぶ経った1900年には竹取物語を音楽劇にしたものを私家版で印刷出版しているから、日本を愛したことはまちがいない。
問題はここからだ。大学のスタッフを給料の高い御雇外国人教師から、彼らが育てた日本人に変えていこうという明治政府の方針にもとづいて滞在10年後の1885年(明治18年)には帰国せざるを得なくなった。ナウマンさんの後任にはドイツで高校を終え、ハイデルベルクなどの大学で地質学を学んだという帰国子女第一世代(明治18年のことだ!)ともいうべき原田豊吉という彼の助手が就いた。仕事にやりがいを持ち、日本を愛していたナウマンの手紙には解雇への恨みが記されている。旭日章はもらったけど・・・、とも。同じく東大の御雇外国人教師で、明治天皇の侍医もしたベルツ博士(草津温泉の評価で有名)も、外国人から日本人への切り替えに日記の中で怒っている(日記は岩波文庫で読める)。ちなみに原田豊吉はナウマンにたてついて、フォッサ・マグナ説を批判し、日本列島は東側と西側がくっついただけと主張したが、現在ではナウマンの方が正しいとされているそうだ。ナウマンは弟子がたてついただけでなく、自分のポストを奪ったことにも怒っていたようだ。
帰国したドイツで日本通としてもてはやされたナウマンだが、解雇された恨みからか、日本についての講演では、時として毒のある話をしていたようだ。
ドイツに戻った2年後の1887年(明治19年)3月9日にミュンヘンの人類学協会で「日本」と題してやはり少し毒のある話をした。
日本ではちょっと田舎に行けば、皆上半身裸で暮らしている。疥癬を患っている人が多い。
既婚婦人は眉を剃りお歯黒をしている。社会的に上の男たちには妾がいる。特にアイヌ民族に対する仕打ちはひどく、アイヌの人々は行動を制限され、囚われの身も同じだ。そして最後に、日本の近代化はどんどん進んでいるけど、これは本心から出たものでなく、西洋が現れたからやむをえずやっているだけだ。その証拠にこういう逸話がある。ある日本の会社が蒸気船を買って、乗組員たちは運転して意気揚々と港の外に出たはいいけど、再び港に戻った時にエンジンの止め方を習い忘れたので、燃料が尽きるまで待っていた。エンジン始動は学んだけど、止める必要があることを理解していなかったので、こういう体たらくに…とナウマンがいうと、会場は大爆笑。最後に、西洋の影響で素晴らしい古い文化が消えていくのは残念だと、先にちょっと触れた話をしたようだ。
だが、その会場に運悪く森鴎外がいた。彼が学んだ東大医学部ではベルツを始め教授陣はほとんどがドイツ人。講義も演習もドイツ語。おまけにドイツ留学5年目である。ドイツ語に不自由はない。聞いていた鴎外は怒り狂った。祖国日本を背負って、軍医学を学びながら、ヨーロッパの芸術や文化にも精進していた鴎外だから当然だろう。講演会のあと、ナウマン氏歓迎のために主だった会席者との食事会を人類学会が行なったが、その席に着いた鴎外は、自分でも日記に書いている通り、顔にも不快感が現れていたようだ。おまけにアルコールの影響かナウマンは「10年間日本にいたけど、仏教徒にはならなかった。なぜなら、仏教では女性は心を持っていないそうだ。ドイツ婦人に対する私の尊敬心からもそういう考えはとても受け入れられない」と冗談めかして述べたので、同席した友人の軍医ロート氏のすすめもあって立ち上がった鴎外は、反論したそうだ。『鴎外日記』のその日の項にはこうある。「在席の人々よ。余が拙き獨逸語もて、人々珠に貴婦人の御聞[お耳]に達せんとするは他事に非ず。余は佛教中の人なり。佛者として演説すべし。今ナウマン君[この「君」は親しみの現れではなく、当時の漢文と同じで「様」である。英語ならミスターぐらいか]の言に依れば、佛者は貴婦人方に心なしといふとの事なり。されば貴婦人方は、余も亦此念を爲すると思い給ふならん。余は辨ぜざることを得ざるなり。夫れ佛とは何ぞや。覺者の義なり。経文中女人成佛の例多し。是れ女人も亦覺者と爲るなり。女人既に能く覺者となる。豈心なきことを得んや。貴婦人方よ。余は聊か佛教信者の爲に冤を雪ぎ、余が貴婦人方を尊敬することの、決して耶蘇教徒に劣らざるを證するのみ。請ふらくは人々よ、余と興に杯を擧げて婦人の美しき心の爲に傾けられよと」、こう言って乾杯したとのこと。要するに仏教でも女性の聖者がいる。冗談じゃない、いい加減なこと言われては困る、ということだろう。演説が終わると、友人のドイツ人軍医たちが寄ってきて、「すばらしい」と褒めてくれたそうだ。「余の快知る可し」(『鴎外日記』)。その後舞踏会となったが「余は舞踏すること能はざるを以って家に帰り眠に就けり」(同)。
鴎外はその後もこのナウマンによほど恨みを持ったのか、彼への反論を当時のドイツの一流新聞に投稿し、ナウマンもそれに反論し、鴎外も再投稿と論争が続いた。この投稿は鴎外全集にも掲載されていて、誰でも読める。読んでみると、彼のドイツ語は立派には違いないが、いささか気取りと気合が入りすぎていて説得力がない。例えば、最近もアイヌの代表者が日比谷で講演して、日本人に感謝していると述べたから、ナウマンのアイヌ問題についての日本人批判は根拠がない、などと官制のアイヌ懐柔策をそのまま引いている。あるいは、ドイツでも奥さんに隠れて女性がいる人だっているではないか、さらには、既婚婦人が眉を剃ることはもう誰もしないなどとも書いている。結果として少し前まではしていたことを認めたようなものだ。ようするに「日本を馬鹿にするな」というだけのことだろう。ナウマンの話が全体として上から目線だったことは間違いないが、当時の文明の落差を考えれば致し方ないかもしれない。アフリカや東南アジアから帰ってきた日本人が似たような話をすることも思い出される。
今でも、外国人に言われるとムッとする人は多い。日本の町はどこでも同じで、あまり旅行しても意味はない、とドイツ人の友人に言われてカッカしている知り合いがいた。ある時私は、ドイツ人の友人に、ドイツの町はどこに行っても都心にヘルティとかカウフホーフとか質の悪いデパートが陣取っていて不愉快だといったことがある。その友人は「そのとおり、ドイツの恥だ。ああいう悪漢どもは追い出すべき。だいたいドイツは空襲のあとの都市の再興に失敗した」と滔々と述べていた。つまり自分の国の批判をされても、それが内容的に正しいなら、当然認める、つまり自分と国とは別物である意識が染み通っている。「大多数のドイツ人は戦前までは数が2までしか数えられなかった。イッチ、ニ、イッチ、ニとね。サンまでいかないんだよな」と過去の軍国主義をみずから皮肉るドイツ人も多い。残念ながら、鴎外には国と自分との区別がなかった。自分でもいいと思っていない自分の国のなにかの側面について批判されると、ぐっと構える、君民一体の「明治の精神」は今日でも残っているかもしれない。
船のエンジンの話でも、冗談なことは明らかで、そういう面が「文明開化」にあったことは否定できない。島崎藤村の『夜明け前』には、木曽の馬籠から幕末に横浜まで行ってきた村人の買ってきた石鹸の使い方がわからず、煮ているうちに消滅してしまった笑い話が出てくる。一生懸命な鴎外に気楽に受け止める余裕はなかったのだろう。だいたい真夏に上半身裸の生活は小生の子供の頃は普通だったし(もっとも、暑くなるとすぐ上半身裸になるのは今でもドイツ人の習性だ。ナウマンさんも全国測量行脚の最中は上半身脱いだことは多々あったと思う)、疥癬が多いのは、幕末から明治にかけて日本を旅行した外国人の文章には必ずと言っていいほど出てくる。イギリス人のイザベラ・バードやドイツ人でのちにトロヤを発見するハインリヒ・シュリーマンなどの日本旅行記にもある。
それでも鴎外は、喧嘩に勝ったと思ったのか、帰国後もこの新聞投稿を若干手直しして、だいぶ時がたった明治44年(1911年)陸軍省医務局でも印刷させている。日露戦争のあとだ。内村鑑三が、ロシアとの戦争に勝ってもいいことはほとんどない。伊藤博文の妾が増えたぐらいなものだ、と強烈な皮肉を言った頃である。鴎外の怒りとは別に戦前の政治家に妾は当然だった。山本五十六でも真珠湾攻撃の直前に本心を吐露したのは、正妻ではなく二号さんにだった。もちろん今でも、この論争は日本人が西欧人に知的に勝った最初の輝かしい例だ、という日本人研究者もいる(小堀桂一郎氏など)。
とはいえ、鴎外と喧嘩したら日本では勝ち目がない。ナウマンの名前はナウマンゾウ以外には、無視されて消えてしまった。ベルツ水などに名が残るベルツなどに比べて影が薄くなってしまった。それでもナウマンゾウの臼歯を手にとったナウマンさんが、自分の名前を学名にして残すという古生物学者の夢が実現して、にこりと笑った明治初期の瞬間に想いを馳せるのも悪くはないだろう。ナウマンゾウのおかげで落ち目の信濃町にも少しは観光客の来訪があるのだから。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
【堀辰雄の野尻湖訪問】執筆:三島憲一
堀辰雄といえば、『美しい村』(昭和9年、1934年)や『風立ちぬ』(昭和12年、1937年)で有名な、戦前から戦後初期の作家だ。彼が軽井沢や富士見と縁が深いことはよく知られている。作家自身の分身と思しき主人公が絵を描く少女と知り合う「美しい村」とは、軽井沢の「外人」別荘街であり、続編の『風立ちぬ』で結核を病むこの女性の看病を兼ねて住むサナトリウムは富士見にある。有名な国立療養所だ。軽井沢のアカシアの森の描写やチェコスロバキア公使館の別荘からバッハのト短調の遁走曲(フーガ)が聞こえてくるシーンなどはかぎりなく美しい(当時のチェコの置かれた危機的状況を考えると悲痛な演奏だったのだろう)。八ヶ岳山麓の雲の動きや秋の時雨の描写も、あの地域の自然らしく荒々しいと同時に繊細きわまりない。だが、その堀辰雄が野尻湖ともそれなりに縁があったことは意外と知られていない。
彼は昭和15年(1940年)の8月も終わる頃に軽井沢の小屋から野尻湖に遊びに来ている。画学生の彼女は結局サナトリウムで亡くなり、その傷心が癒えた昭和13年に室生犀星の媒酌で結婚した夫人同伴だった。ちなみにこのご夫人は堀辰雄が昭和28年に亡くなったあとも2010年に九七歳で世を去るまで、主として軽井沢で過ごされていて、堀辰雄や軽井沢についての珠玉の文章を書いておられる。旧軽井沢の万平ホテルに向かう森の中の交差点に誰からもわかる形で「堀」という表札がかかっている庭の広いお宅だった。
軽井沢の話をしても仕方ないので、野尻湖に戻ろう。『晩夏』(もともとは『野尻』、堀辰雄全集を探さなくても、ネットの青空文庫で読める)と題された短編はこうはじまる。
「けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た」。きっかけは、軽井沢のある店でほんの思いつきで、旅行バッグを買ったことだった。朝食のマドレーヌの味をきっかけに、過ぎ去りつつある自分たちの時代をはるかに思い起こす『失われた時を求めて』のプルーストの手法の、まあ猿真似だが、野尻湖まできてくれたのだからいいとしよう。しばらくすると次のような文章に出会う。
「そんな急な思いつきで、妻と二人で、旅に出て来たのだった。最初は、志賀高原、戸隠山、野尻湖なんぞとまわれるだけまわって、軽井沢ももう倦あきたので、来年の夏を過ごすところを今から物色しておこうと思った」。
ひょっとしたら野尻湖周辺が今の軽井沢のようにセレブとミーちゃんハーちゃんが群れ集う場所になっていたかもしれないことはよく指摘される。1960年代や70年代に軽井沢の俗化を嫌った外国人たちが、野尻湖に移りつつあるとはよく言われた話だ。国際村の宣教師たちは何年かにいっぺん休暇で故国に戻る。その空いた別荘を低価で貸して、村の運営費にあてるという巧みな運営は、今でも続いているが、そこに東京駐在の外交官やジャーナリストが目をつけたのだ。しかし、この文章を読むと(「軽井沢ももう倦あきたので」)、すでに戦前から野尻湖物色がはじまっていたようだ。だが、その軽井沢からも外国人は現在すっかり姿を消している。航空運賃の庶民化にともなって、国や会社から費用の出る正規の休暇でなくても夏は本国に戻れるからだ。
それでは、堀辰雄夫妻は、野尻湖に来てなにをしてどこに泊まったのだろうか。この短編にはその一部始終が描かれている。柏原の駅から野尻湖までは今と同じに「乗り合い」バスがあったようだ。このバスで野尻湖に向かう途中で、休暇が終わって駅の方に向かう外人の家族と行き違ったが、彼らは牛の引く荷車に家財道具を積んで歩いていた。さすがにのんびりした戦前の時代である。
湖畔の船着場でまずは宿探しだ。夏の終わりだ。たいていの宿はもう閉めていそうだ。
「人に訊いてきたレエクサイド・ホテルとか云う、外人相手の小さなホテルだけでも明いていて呉れればいいが――と思って、湖畔で乗合から降り、船の発着所まで往って、船頭らしいものを捉えて訊くと、「さあ、レエクサイドはどうかな?」と不承不承に立って、南の方の外人部落らしい、赤だの、緑だのの屋根の見える湖岸を見やっていたが、「あの一番はずれに見える屋根がホテルだがね、まだ旗が出ているようだから、やってましょう。――お往きなさるかい?」
このあと二人は、モーター付きの小さなボートでその宿のところまで運んでもらう。どうやら国際村の湖畔道路はまだなかったようだ。短編の後半でふたりは、そこの砂浜を歩いていることからも想像される。国際村のはじというと今では砂間館があるが、どうやらそれよりは少し前の方で岸について、坂道をすこしあがったところにこのホテルはあったらしい。彼らは「西側の湖水に向いた」部屋は西日が強いので、山側の部屋を取ったとあるが、ベランダには出れたようだ。ベランダからの風景にはこうある。
「地図と見くらべながら、右手のが斑尾山、それからずっと左手のが妙高山、黒姫山、というのだけが分かった。それからいま此処からは見えないが、戸隠山、飯綱山などがまだ控えている筈だった」。
さて、ここからが謎解きだ。船着場から見える宿で、そのベランダから斑尾、妙高は当然として、黒姫まで見えるという場所は、国際村の下の方にはたしてあるのだろうか。さすがにこの謎解きはネットで盛んなので、興味のある方は、検索すればある程度のことはわかる。外人の姉妹も泊まっていて、晩飯のときはアヴェ・マリアやワルツのレコードがかかるという当時としてはハイカラのこのレイクサイドホテルはのちに作家伊藤整の別荘になったらしい。今は取り壊されているようだが、ネットで活躍している探索マニアの意見も参考にした小生の推測では、国際村の艇庫あたりから上に少し上がったところにあったようだ。
滞在中は、二人で国際村を散歩する。今も歩くといいところだが(ちなみに真ん中の道路以外は今でも舗装されていない。散策が前提の作りだ)、堀の描写もいささかの西洋趣味とあいまって、うまい。
「こうやって人けの絶えた外人部落をなんという事なしにぶらついていると、夏の盛り時は見ていずとも、何か知ら夏に於ける彼等の生活ぶりがそこいらへんからいきいきと蘇ってくる。――人が住んでいようといまいと、いつもこんな具合に草が茫々と生えて、ヴェランダなど板が割れて、いまにも踏み抜きそうな位に、廃園らしい感じだが、そんな中から人々の笑い声がし、赤ん坊がハンモックに寝かされ、犬が走り、マアガレットが咲きみだれ、洗濯物が青いのや赤いのや白いのや綺麗にぶらさがっている。……夕方になると、上の方の別荘からレコオドが聞え、湖水の面にはヨットが右往左往している。そして、このウツギの花の咲いた井戸端なんぞには、きっと少女が水を汲みに来て快活そうにお喋しゃべりをする。……そんな愉しそうな空想があとからあとから涌いて来る。それをまた子供のようにはしゃいで一々妻に云い訊かせながら歩いている私は、何遍となく間違えて人の家へはいって往った」。
ふたりはまた、YWCAの方にも行ってみる。ヴォーリスの設計になる今でも存在する施設だ。夏のキャンプファイアーの燃えかすの炭化した薪が雑木林のあちこちに見える。「これはボンファイアをした跡だわ……」妻はしきりに自分の女学生時代の事を思い出しているらしく、いくぶん上ずったような声で私に云った」。どうやら当時は、ボンファイアといったらしい。戦争に向かう時期の日本としては幸福な青春を送った金持ちのお嬢さんのようだ。残念ながらふたりは桜ヶ丘や美山には来てくれなかったようだ。まだ開発されていなかったのだから、仕方ないが・・・。
だが、8月の終わりの野尻湖は、曇天や霧の日が多い。彼らが滞在した4日ほどのあいだ
も、全体が霞んでいる上の方に斑尾や妙高の頂上が顔を出しているような天気だったようだ。寂しい。堀はニーチェが作ったZweisamkeitというドイツ語を書き付けている。ツヴァイザームカイトと読むが、孤独Einsamkeit(アインザームカイト)に発する言葉だ。Ein(アイン)は一人という意味。それに対してZwei(ツヴァイ)はふたりということだ。「ふたりぼっち」ということだろう。彼は「いわば差し向かいの淋しさと云ったようなもの」とさすがの訳をつけている。
そういう寂しい日のホテル、今ならベランダで、1日スマホいじりだろうが、「古き良き時代の」上流文士とその奥様は、ベランダで読書だ。
実は、ここからがこの短編の肝心なところなのだ。堀辰雄は、この滞在中に霧の野尻湖を望むベランダで、ドイツの閨秀作家アネッテ・ドロステ・ヒュルスホフ(1797-1848)の短編作品『ユダヤ人のブナの木』を読んでしまうのだ。そして毎日、読んだところまでの筋書きを、宿から見える斑尾の風景や、同宿の神戸から来ている外人姉妹のおしゃべりの観察などと混ぜ合わせて記している。
この作品は、ドイツでは今でも最もよく読まれている短編小説だ。貴族の令嬢だったこの作家は晩年をドイツとスイスの国境のボーデン湖畔のお城で過ごした。それこそレイクサイド・キャッスルだ。その寂しい生活の中で故郷の北ドイツのヴェストファーレン地方(刃物で有名なゾーリンゲンなどがある地方)の田舎の村の実際にあった恐ろしい話をネタに書いたものだ。この地方は、マルクスの『資本論』にも出てくるが、当時は貧困そのものだった。夜なべをして麻布を織っても生活に、いや暖房の薪に事欠く時代で、今のドイツの豊かさからは想像もつかない。そういう中で森林の盗伐、森林取締官と盗伐団のヤクザな親分との葛藤(取締官も実は一味だったらしい)のなかで、主人公フリードリヒに借金の返済をせまるユダヤ人の金貸しがブナの木につるされて殺されていた。その晩に二人の若者、つまりこのフリードリヒとその友人のヨハネスがいわば国破りで姿をくらます。しかし、別の郡で、アーロンというユダヤ人がユダヤ人同士の争いで殺人を犯しと自白したので、人々はよくわからないままに一件落着としていた。ところが、何十年かして友人のヨハネスが、老いさらばえて戻ってくる。傭兵でトルコに売られていたとのこと。戻って来た老ヨハネスが城主の御用聞きとして落ち着いた生活をはじめたと思ったら、彼はまた姿をくらます。そして数日後あのブナの木に、戻って来たのとは別の、一緒に姿をくらましたフリードリヒが自殺なのか、ぶら下がっているのが発見される。
実は、最初にユダヤ人が殺された時に、近郷のユダヤ人たちがお金を出し合って、このブナの木を買い取った上に、そこにヘブライ語で訳の分からない呪文が書かれていた。大部分の読者にはもちろんその言葉の意味はわからない。最後に作家がこの言葉をドイツ語に訳して話が終わる。堀辰雄の訳では「此処に汝の近づく時は、嘗て汝が我に為せし事を汝は汝自身に為さん」。最初のユダヤ人殺人は誰の手になるのか、最後に死んだのは、本当に自殺なのか、また行方不明になった老人ヨハネスは?さまざまな推理を誘い、本当のことはわからない。なかには、その後のドイツの歴史を考えて、ユダヤ人問題を論じる人もいる。
しかし、堀辰雄は、今の私の説明などよりはるかに適切に詳しく、毎日読んだところのあらすじを紹介してくれる。この文章を書くにあたって、小生も50年ぶりにこのドイツ語短編を取り出して読んでみたが、場所を北ドイツの代わりに南ドイツとしている間違いを除けば、堀の要約の適切さ、背後にある貧困や村の人間関係の紹介はうまいとしかいいようがない。小説の中の貧困と、散歩の途上で行き違ったキコリと思しき国際村周辺の地域の老人の様子とが重ね合わされている。劇中劇の登場人物が大枠の劇の中に出でくるーー今ではテレビなどで使われる手法だ。
堀は主としてフランス文学を読み、そこから小説の手法を学んでいたようだが、ドイツ語も苦労せずに読めたことは、このあらすじの紹介からもわかる。たいしたものだ。新潮文庫の中村真一郎の解説によると東大時代、エンゲルスの『反デューリング論』(原文はドイツ語。日本ではこの抜粋の『空想より科学へ』が知られている)の読書会には、フランス語訳も持参してきたというキザなお兄さんだったようだ。
こうして四日がたち、夫妻は軽井沢に戻る。「翌朝はとうとう霧雨になり出していた。山々も見えず、湖水は一めんに白く霧っていた。丁度好い引上げ時だと思って、帰りの自動車を帳場にいた男に頼んだ。なんでも例の娘達もその晩の夜行で一人は神戸へ、一人は横浜へ立つ事になっているので、いよいよあすから此のホテルも冬まで閉じるそうだった。此のホテルには電話が無いので、ちょっと自動車を頼んで来るといって、その男は霧雨のなかを自転車で出かけて往った」。
病気がちの若い作家とその妻の静かな野尻の夏がこうして終わる。野尻湖の風物を描いた作品のなかに遠い国の別の作品の紹介を書いて。荷車や、電話のないホテルや「その晩の夜行」は、時代を感じさせる。また二人が菅川村の方に「モオタア船」でいきたいと思った時に、船宿のおかみさんが、主人は昨日から向こう岸の婚礼に行ったまま帰ってこない。「あすの朝早く出征する方を向う岸へ渡す約束がしてあるのだが、それに間に合うように帰って貰わなければ本当に困ってしまう」と言う。そのために二人は湖上に船で出れないのだが、「出征」には日華事変の真っ最中だった昭和15年を感じさせる。その兵隊さんは戻って来たのだろうか。
〔次回は堀辰雄の野尻湖訪問の数年前の1937年8月1日に野尻湖から故国に向けて書かれたフランスの世界的に有名な大学者の一通の手紙を紹介したい〕
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
エッセイ 野尻湖50年(4) 【NGTに別荘持つことの価値】 松風台南14 内藤壽夫
前回、気候変動に触れたが、本年も昨年同様な猛暑であろうか? 降雪は早期に融けて農繁期の渇水、野尻湖の水面大幅低下もあり得る。温暖化による偏西風の蛇行は、降雪と急激な融雪を繰りかえすことになり、除雪費用は必要だが雪おろしは減るとNGTの財政にも影響しかねない。
猛暑が避暑地の価値を高めるという現象は現実に軽井沢の隣接御代田町で発生している。東信の商業と医療の中心地佐久に近く、地価も手頃なため、中高年、若者の移住が増えている。人口は過去25年で14%増となっている。この動きが信濃町に直ちに及ぶとは言えないが、気候変動が過疎寒冷地を活性化するというのは幻想ではないかもしれない。
言うまでもなくNGTは、北信5岳、野尻湖の優れた景観、ウインタースポーツ含め四季が楽しめる点では日本有数の希少な立地にある。赤倉一信州の多数の戦も楽しめる。また、長野、小布施、松代など文化財や旧跡も多い。しかし、信濃町の人口は減り続け50年経過して公共交通機関は大変不便になってしまった。小生も80の壁を痛感する年齢となり、車の運転も遠慮すべき状況にある。以下NGTが今後改善、解決したい問題を思いつくまま挙げてみる。あくまで個人的な意見であることをお断りしたい。
(1)NGTの最大の問題は、車がないと行動が大幅に制限されることであろうか。
タクシー利用も信濃町の初乗り補助があっても負担は大きい。既に手は打たれてはいるがライドシェア等の動きも踏まえて更なる充実が望まれる。法人又はクラブの会員制による車両利用なども検討課題であろうか。
(2)基礎管理(道路、水道など)の維持、改善
水道などは50年経過して老朽化が顕著で、水漏れなどに法人職員は懸命に対応しているが予算に限りがあるため、イタチごっこの感もある。用途を水道に限定せず、インフラ維持改善のためマンションの修繕積立金制度に倣った恒久的な資金対策は出来ないだろうか。
(3) クラブ活動の本格的な再開
ここ10年、高木代表の文字通り孤軍奮闘に甘えてきた。しかしここ4年コロナの影響は誠に大きく、クラブ活動の大きな効果である組合員の親睦、コミュニケーションの促進は大きく損なわれてしまった。コロナも、インフルエンザに近い形になることを期待したい。本年度は諸行事の復活、新たな企画なども高木代表中心に検討されている。若い世代のニーズも変化しているであろうが、小生も小旅行、講演など幾つか提案してみたいと考えている。特に若い世代の方々の積極的なご提案、ご参加をぜひお願いしたい。
エッセイ 野尻湖50年(3) 【NGTに別荘持つことの価値】 松風台南14 内藤壽夫
昨年は私の50年以上になる野尻湖とのかかわりでも記憶にない豪雪であり、現場職員は大変な苦労であった。本年(2023年)は、例年対比降雪は少なめであったが10年に一度という寒波に見舞われてマイナス15度を記録した。さらに今夏は日本の多くの場所で記録的な猛暑となった。北日本海側の多くの地方は太平洋高気圧の縁にあたり、フェーン現象も加わり、信濃町も相当な高温となった。特に7月末は、孫たちは、日中は野尻湖で泳ぐことしか頭に浮かばなかったようである。猛暑は隣の新潟県でひどく、8月は砂漠並みの降雨しかなく、お陰で野尻湖の水は上越の田畑の救いに神となったが、水位はひどく下がって遊覧船の運行にも支障が生じた。
どんなに呑気な人でも、近年の気候変動が、振幅が大きくなったことは実感しているであろう。小生は気候変動の専門家ではないが、長らく環境問題にかかわり多くの情報を得ている。我が国でもアメリカの一部保守派のように、近年の温暖化が人間活動のせいではないと信ずる人もいるが、冷静にデータを見る限り温暖化は急加速している。温暖化にせよ寒冷化にせよ、人間や動植物が対応できない速度で進めば食料事情は急速に悪化し、ただでさえ食料自給率が非常に低い我が国は困窮することが予想される。
そうした中で野尻に第二の拠点を持つ、あるいはこの地に永住される方々は大変幸せかもしれないと感じている。
働き盛りの年代でも通信環境の改善により、仕事の内容次第では、冬季は首都圏、春から秋までは野尻という生活も可能になりつつある。
小生は数年前から、寒冷地で春から紅葉が終わるまで文字通り晴耕雨読の生活を送っている。素人なので失敗も多いが、わずか20坪程度の畑で玉ねぎ、ジャガイモ、トマト他夏野菜、キャベツ、白菜、レタス、モロッコインゲン等を栽培している。ブルーベリーも今年はかなり採れるようになった。無農薬、有機栽培を心掛け自家消費では余る収穫になった。取り組んでみると家庭菜園に過ぎない規模の農業でも大変奥深く、かつ創造的な活動であることを実感している。
野尻も過疎化の進み方は激しい。やや極端な考え方かもしれないが気温の耐え難い程の上昇、食料事情の悪化は、過疎寒冷地の復活に寄与する可能性もある気がする。適切な伐採による樹木を暖房に使用すれば化石燃料の様に一方的に温暖化に影響することもない。自家栽培の野菜や又は地産地消の食材で暮らすことは省エネにも大きく貢献する。加えて空気清浄、豊かな自然に触れての生活は精神衛生的にも優れた生活であることは言うまでもない。
エッセイ野尻湖50年(2) 【NGTに別荘持つことの価値】松風台南14 内藤壽夫
昨年は私の50年以上になる野尻湖とのかかわりでも記憶にない豪雪であり、現場職員は大変な苦労であった。数年前は逆に降雪は少なく、除雪回数は少なかった。今冬なんとマイナス15℃を記録した。このように温暖化は一進一退を繰り返すので本当かと疑問視する方もある。専門的な議論を避けて結論を言えば、コロナ禍やウクライナ侵攻をよそに確実に進んでおり、危険な領域に達している。NGTが創設されたころの10年間の東京猛暑日数は15.3日であったが最近10年間は34.6日に倍増している。厚労省データでは、首都圏4都県(東京都、神奈川、埼玉、千葉)の熱中症死者数は2017年には42名であったが2020年には580名と増えている。温暖化は更に加速すると予想され、盛夏の首都圏は誠に住みにくいところとなりそうである。
さて、野尻湖付近の変化を色々調べてみると平均気温上昇度は、全国平均並みで、信濃町の気温も(小丸山公園付近で観測)最近では盛夏33℃に達する日も出ている。しかし、日が暮れるとエアコン無しで十分眠れる。NGTの大部分は樹林の中にあり、この効果も大きい。更に午後は妙高山付近から涼風が吹き込むため、標高730mの小宅は最高28℃を超えることは殆どない。ちなみに標高約950mでより涼しいはずの旧軽井沢は盆地状であまり風が吹かないので盛夏の午後はかなり暑い。野尻の現在状況が長続きし夏季に快適に過ごせることを願っており、NGTに別荘持つことの価値は高い。
最近の研究では、温暖化の影響で偏西風の勢いが弱まり、蛇行する傾向が出てきている。偏西風が日本列島の南に膨らむように蛇行するとシベリア寒気が南下し、日本海の水蒸気量の増大も寄与して大雪となり、また逆に北に膨らむと太平洋の暖気が入り込んで暖冬となるという。NGTもこの影響で今後大雪の年と温暖で降雪の非常に少ない年を繰り返す頻度が高まるかもしれない。NGTの経理、財政安定への影響も少なくない。
コロナ禍は、インターネットの普及と相まってリモートワークを広める大きなきっかけとなった。2020年夏には、NGTでリモートワークされた方もおられた。災害含めて有事に本宅以外に生活拠点を持つことの意義が認識され、首都圏から交通の便の良い軽井沢の不動産が高騰する契機となった。首都圏など人口密集地域は、直下型地震、低地での浸水、長期停電など様々なリスクがあり、今後リスク増大も予想されている。考えたくないが他国からミサイル撃ち込まれかねない事態があったとき、どこに避難するか? 最早80年近く昔になる戦後に、実は田舎の実家が食料調達含めて大きな役割を果たしたことを記憶する人は稀になっている。NGTでは、現在あまり使用頻度の高くない別荘が悪循環に陥り廃屋化する問題を抱えているが、別荘を持つことの意味を、有事の生活拠点にもなり得るという視点で見直すことを期待したい。
※ 2023年 4月16号「春のお便り」 野尻湖グリーンタウン通信
✑エッセイ 「NGT 50 年」松風台南 内藤壽夫
はじめに
小生は、NGT に1967 年頃亡父が山荘を建ててからのメンバーで、半世紀にわたって
利用してきた。山あり、湖あり、自然環境に恵まれた野尻の環境にほれ込んで。しか
し、野尻をめぐる環境は大きく変化している。最も著しいのは、信濃町の人口減少で、
ピーク時の1985 年の約13,700 人から2022 年4 月では約7,500 人に減っている。個人
商店の多くは閉店し、またNGT 内の所有者も世代交代や、所有の第三者移転も進んで
いる。外国人所有者もじわじわ増加している。50 年前には予想していなかった、永住
の方も約40 軒あり、また信濃町在住者が別荘を購入し、単に住居として使用している
ケースもある。これに伴いニーズの多様化に応えるため、管理も難しさが増している
といえよう。
三栄興業が管理会社であった時代は会費(組合費)を納めること、NGT のクラブ活動
に受動的に参加するだけであった。詳しくは当事者でなかったのでわからないが三栄
興業は末期には乱脈な経営が行われ、職員給与の支払いに問題を生じたほか、組合員
の全く知らない間に現在NGT 法人が所有、管理する道路などになんと抵当權が設置さ
れ、危うく大変なことになるところであったと聞く。幸い組合員有志の方々の尋常で
ない奮闘で事なきを得たことも全く知らなかった。
亡父没後しばらく使用されず傷んだ山荘を水回りや、高所作業除いて4分の一ぐら
いはDIY で修復し、このころから別荘管理に関心を持つようになった。また、管理が
三栄興業の手を離れ、組合と一般社団法人が設立されたが一時両者の間に対立が生ま
れ大変心配した。最近では両者の関係も大幅に修復され、お互いの理事会に実質参加
して意思疎通が図られている。
◆組合と法人
NGT になぜ管理組合と一般社団法人野尻湖グリーンタウンが存在するのかわからな
いといわれる方も少なくない。簡単に言えば、
・組合は組合員から組合費を徴収し、法人に具体的な管理を委託する他、管理の総合
的な企画、法人が要求通りの業務を実行しているか確認する役割といえようか。また
将来に備えて(例えば除雪機の買い替えなど)財政的な準備や裏付けを行っている。
・法人は組合からの委託を受けて基本管理を実施するほか、組合員の個別のニーズに
応えて市価よりも割安な特別サービスを行っている。また道路他ロッヂなど共通の不
動産を所有し登記している。法人の業務はマンションなどの管理会社のそれと似てい
るが、固定資産税納入、不動産登記、職員の労務、安全などに法的な責任を負ってい
る。
・主に財政に関する観点から両組織をすぐに一体化することは難しいが、両理事会の
運営は、現状は合同に近づきつつある。
◆他別荘地との比較
5,6 年前法人の理事に選任されて知ったのは、専門的な管理会社がない中でこれま
での先輩諸氏の文字通り献身的な努力でNGT が管理されて来たことで、お陰で周辺に比
べても格安の費用で良質な管理が行われている。管理料金の比較はその内容が分からな
いとできないが、
・5,6 年前の野尻周辺への別荘地の管理費用はいずれも除雪無しで年間10~15 万で
あったと記憶する。
・別荘地で有名な軽井沢では、月1回の建物外部の巡回及び管理報告、スペアキーの
保管、家屋や敷地の異常報告、戸締り、通風、電気、ガスの目視点検程度で10~15 万、
実質的な作業はすべて別料金で、(例えば水道開栓、水抜きはそれぞれ一回につき
10,000 円から15,000 円)、平均的には固定資産税、光熱費、水道料金、草刈、落ち葉
かきを含めて70~100 万/年、著名人の広大な別荘では固定資産税が大きく寄与して数
百万円以上/年と言われる。
小生も法人理事拝命はしているが最も高齢者の一人であり、最後のご奉公を全うでき
るか自信はない。しかし微力を尽くして次世代に良好な管理、環境を残したいと願って
いる。小宅も次世代に円滑に譲る検討に入っている。
今後のNGT がますます良好な管理でその有形無形の価値を高めることを願って思い
つくままであるが、法人理事ではなくあくまで一個人としての雑感を述べさせていた
だきたい。今後以下のような話題を考えているがなにかのご参考になれば幸いである。
・生活の拠点を野尻湖に持つ意義
・NGT の価値をたかめるために
・廃屋問題とその予防
・別荘、土地の売買について
・伐木、景観問題
・環境に無配慮な居住者への対応
・NGT の管理今後の課題
・野尻湖の気候の今後
※ 2022年 10月15号「秋のお便り」 野尻湖グリーンタウン通信
ライブカメラ
野尻湖グリーンタウン神山ロッヂに設置されたカメラからの3分ごとのライブ映像
美山ライブカメラ
野尻湖グリーンタウン美山ロッヂに設置されたカメラの映像
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