【ナウマンゾウのナウマン氏とはどんな人?】 執筆:三島憲一
長野市といえば善光寺ならば、野尻湖といえばナウマンゾウだろう。グリーンタウンの方々ならば、野尻の郵便局の裏手にあるナウマンゾウ博物館に子供の頃に、あるいはお子さんやお孫さんといらしたことが一度はあるはずだ。数年に一度冬の渇水期に行われる発掘作業に参加した方も、おられるかもしれない。私も、発掘現場で関係者が一生懸命掘ったり、土砂をザルでさらったりしているのを拝見させていただき、お話をきかせていただいたこともある。ナウマンゾウを追いかけた野尻湖原人に夢を馳せた方もおられるかもしれない。今より寒かったらしいから、「縄文織の粗末な上着だけでさぞかし寒かったろう、よく生きていたな」とも。高速道路の出口近くの貫の木あたりにも、また清明台や照月台にも集落があったらしい。
とはいえ、ナウマンゾウは野尻湖の専売特許ではない。そもそも最初に偶然発掘されたのは横須賀、次に浜松だ。東京でも20世紀後半、浜町の地下鉄工事現場から出ているそうだ。野尻湖のものは、ナウマンゾウ博物館によると、敗戦の直後に地元の旅館の関係者が渇水期に偶然見つけたらしい。横須賀や浜松で出土した化石を見た、ドイツ人の地質学者エドムント・ナウマン(1854-1927)が、氷河期に日本海が歩いで渡れた頃にシベリアから来たマンモスゾウの亜種と断定して、ナウマンゾウと名付けた(学名はpalaeoloxodon namadicus naumanni。最後にナウマンさんの名前がついているところがミソ)。だが野尻のナウマンゾウ博物館でもナウマンゾウやその化石、当時の人々の生活については色々と説明があるが、当のナウマンさん自身についてはほとんど記述がない。
一般には、日本で地質学を創設したドイツの学者であり、なによりも糸魚川から富士川にかけての巨大地溝帯フォッサ・マグナの発見者と命名者ということが知られているぐらいだろう。大森貝塚を発見したアメリカ人の生物学者エドワード・S・モースとの競争と協力などについても聞いたことのある方もおられるだろう。
エドムント・ナウマン(1854-1927)は、ドイツはザクセン王国のドレスデンの近く、磁器で有名なマイセンで建築家の家に生まれ、ドレスデン工科大学で地質学や古生物学を学んだのちに、1875年にミュンヘン大学で郊外のシュタルンベルク湖の生態学的研究で博士号を取得している。滅多にもらえない「秀(summa cum laude)」の成績だから、よほど優秀だったのだろう。ちなみにこのシュタルンベルク湖は森鴎外の『うたかたの記』でルードヴィヒ2世(ヴィスコンティの映画でも有名だ)が身を投げた湖として出てくる風光明媚なところでもある。遠くに高い山をいただいて少し細長いところは野尻湖と似ていなくもないが、周辺はこちらよりもだいぶエレガントだ。なんでもドイツでも最も金持ちの多い地域のひとつらしい。まあ野尻湖周辺に芦屋の街が引っ越してきたと思えばいい(姉妹都市の可能性?)。
博士号取得直後に、地質学の教授を探していた在ベルリンの日本大使館からの要請を受けた自分の教授に「日本で就職はどうだろうか」と言われ、二つ返事で引き受け、2カ月後には日本行きの船に乗り込んだというから、よほど怖いもの知らずだったのだろう。なにしろ、鉄道網も整備されていない明治8年のことだ。滞在期間は10年におよぶ。それにしても若干22歳でいわゆるお雇い外国人教師として来日し、開成学校教授を経て東大教授となり、地質学教室を作り上げ、地質調査所(現在の独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)も創設したのだから大変なものだ。給料は年俸として金兌換可能な300円だったそうだ。少し前に来日し、同じ御雇外国人教師として東大工学部を作り上げたスコットランド出身のヘンリー・ダイアー(1848-1918)の年収が当時の次官を上回ったという明らかな証言があるから、同じようなものだろう。
彼らには皆自分なりの野心があった。ダイアーは、イギリスの現場主義的なエンジニア養成システムに不満を持っていて、ドイツ型の理論も入れた工学部を作る夢を持っていた。チャールズ・ダーウィンが提唱して始まり今でも有名な雑誌『ネーチャー』には当時、東大工学部の教育が世界で一番すごい、イギリスはここから学ばないと手遅れになる、という記事が出たほどだ(ご興味のある方にはPDFをお送りします)。大森貝塚のモースは、進化論の信奉者で、アメリカでは宗教的圧力でなかなか展開できなかった自説を自由に述べる夢を持って日本にきた。ナウマンも、まだ専門的にはなにも知られていない日本の地質構造などを研究して世界に打って出ようという思いもあったようだ。軍事的にも重要な鉄鉱石や石炭などの地下資源探索のエキスパートを探していた日本側ともうまくマッチしたようだ。
私なら22歳で次官の給料をもらう職にありついたら、夢かと思って毎日遊びほうけてしまうところだが、ドイツ・プロテスタントの職業倫理もあってか、ナウマンさんはものすごく勤勉に仕事をした。ほとんど全国を歩き回り、伊能忠敬のそれを上回る正確な日本地図を作り(図版参照)、かつあちこちの地層について、有り体に言えば地面について細かい研究をしている。踏破した距離は1万キロ以上と言われている。あとで引く文章からして旧北国街道を通って我々の地区から妙高あたりにも来たことは明らかだ。彼の論文は多くがネットで読めるが、私などが子供の頃「コンコン石」と呼んでいたさもない石が関東平野に分布しているのはなぜかについても研究している。彼の表現によれば「かんかん石」というのも微笑ましい。海底でできて盛り上がってきた安山岩の話のようだが、実際に私たちが子供の頃「こんこん石」と呼んでいたのは関東ローム層に関係している泥岩なので、本文からは素人の私にはよくわからないところがある。
地理にも詳しく、日本列島の構造を論じた論文では、私たちの野尻湖近辺の地形について次のような記述がある。「東経132度から136度の間の地域[これは西日本]に触れる前に、弓なりになっている日本列島を真ん中で古い山岳地帯を分けている地溝帯[フォッサ・マグナのことだろう]の近辺を詳しく見ておこう。オワリワン(伊勢湾のことか。図版を見ると伊勢湾と駿河湾から伸びる山脈が重要なようだ)から日本海にのびるもので、富士山、八ヶ岳、妙高山、焼山などは、これと関連して出来上がったものである」と書かれている。
そして、こうした山塊は海底火山からの造山運動でできたと記述されている。1884年(明治18年)のことだ。なにも知らない国に来て、今でも認められている発見をしたのだからすごい。まあ、ヨーロッパ・アルプスの造山運動などについて大学で勉強したことが役に立ったのだろうが。いずれにせよ、ナウマン象などはほんの余芸だった。とはいえ、先に触れた風光明媚なミュンヘン郊外の湖についての博士論文に、ある研究者によれば、すでに次のような文章があるのは、まさに野尻湖のナウマンゾウの化石の場所を予見したようなものだ。「遥か昔に島国では色々なものが食べられた結果、動物の骨やそれ以外の消化不能な部分は、結局は湖に、いわば台所のゴミのように流れ込んだに違いない」。ナウマンゾウの使えない部分を縄文人が湖水に投げたことは十分にありうるだろう。野尻の発掘現場でも料理場所の跡地だったと説明を受けたことがある。
妙高山や焼山の名前にも詳しいことや、そのほかさまざまな証言を総合すると、日本語もできるようになったらしい。そして、自分では日本の近代化を推進する側にいながら、日本がどんどん西洋っぽくなり、古い文化が失われるのを嘆いてもいたようだ。これは西洋以外の文化に触れたヨーロッパ人の典型的なロマンチシズムだ。自分たちが進出した結果起きた古い文化の消失を嘆くのだから勝手なものといえば、勝手なものだ。とはいえ、帰国してだいぶ経った1900年には竹取物語を音楽劇にしたものを私家版で印刷出版しているから、日本を愛したことはまちがいない。
問題はここからだ。大学のスタッフを給料の高い御雇外国人教師から、彼らが育てた日本人に変えていこうという明治政府の方針にもとづいて滞在10年後の1885年(明治18年)には帰国せざるを得なくなった。ナウマンさんの後任にはドイツで高校を終え、ハイデルベルクなどの大学で地質学を学んだという帰国子女第一世代(明治18年のことだ!)ともいうべき原田豊吉という彼の助手が就いた。仕事にやりがいを持ち、日本を愛していたナウマンの手紙には解雇への恨みが記されている。旭日章はもらったけど・・・、とも。同じく東大の御雇外国人教師で、明治天皇の侍医もしたベルツ博士(草津温泉の評価で有名)も、外国人から日本人への切り替えに日記の中で怒っている(日記は岩波文庫で読める)。ちなみに原田豊吉はナウマンにたてついて、フォッサ・マグナ説を批判し、日本列島は東側と西側がくっついただけと主張したが、現在ではナウマンの方が正しいとされているそうだ。ナウマンは弟子がたてついただけでなく、自分のポストを奪ったことにも怒っていたようだ。
帰国したドイツで日本通としてもてはやされたナウマンだが、解雇された恨みからか、日本についての講演では、時として毒のある話をしていたようだ。
ドイツに戻った2年後の1887年(明治19年)3月9日にミュンヘンの人類学協会で「日本」と題してやはり少し毒のある話をした。
日本ではちょっと田舎に行けば、皆上半身裸で暮らしている。疥癬を患っている人が多い。
既婚婦人は眉を剃りお歯黒をしている。社会的に上の男たちには妾がいる。特にアイヌ民族に対する仕打ちはひどく、アイヌの人々は行動を制限され、囚われの身も同じだ。そして最後に、日本の近代化はどんどん進んでいるけど、これは本心から出たものでなく、西洋が現れたからやむをえずやっているだけだ。その証拠にこういう逸話がある。ある日本の会社が蒸気船を買って、乗組員たちは運転して意気揚々と港の外に出たはいいけど、再び港に戻った時にエンジンの止め方を習い忘れたので、燃料が尽きるまで待っていた。エンジン始動は学んだけど、止める必要があることを理解していなかったので、こういう体たらくに…とナウマンがいうと、会場は大爆笑。最後に、西洋の影響で素晴らしい古い文化が消えていくのは残念だと、先にちょっと触れた話をしたようだ。
だが、その会場に運悪く森鴎外がいた。彼が学んだ東大医学部ではベルツを始め教授陣はほとんどがドイツ人。講義も演習もドイツ語。おまけにドイツ留学5年目である。ドイツ語に不自由はない。聞いていた鴎外は怒り狂った。祖国日本を背負って、軍医学を学びながら、ヨーロッパの芸術や文化にも精進していた鴎外だから当然だろう。講演会のあと、ナウマン氏歓迎のために主だった会席者との食事会を人類学会が行なったが、その席に着いた鴎外は、自分でも日記に書いている通り、顔にも不快感が現れていたようだ。おまけにアルコールの影響かナウマンは「10年間日本にいたけど、仏教徒にはならなかった。なぜなら、仏教では女性は心を持っていないそうだ。ドイツ婦人に対する私の尊敬心からもそういう考えはとても受け入れられない」と冗談めかして述べたので、同席した友人の軍医ロート氏のすすめもあって立ち上がった鴎外は、反論したそうだ。『鴎外日記』のその日の項にはこうある。「在席の人々よ。余が拙き獨逸語もて、人々珠に貴婦人の御聞[お耳]に達せんとするは他事に非ず。余は佛教中の人なり。佛者として演説すべし。今ナウマン君[この「君」は親しみの現れではなく、当時の漢文と同じで「様」である。英語ならミスターぐらいか]の言に依れば、佛者は貴婦人方に心なしといふとの事なり。されば貴婦人方は、余も亦此念を爲すると思い給ふならん。余は辨ぜざることを得ざるなり。夫れ佛とは何ぞや。覺者の義なり。経文中女人成佛の例多し。是れ女人も亦覺者と爲るなり。女人既に能く覺者となる。豈心なきことを得んや。貴婦人方よ。余は聊か佛教信者の爲に冤を雪ぎ、余が貴婦人方を尊敬することの、決して耶蘇教徒に劣らざるを證するのみ。請ふらくは人々よ、余と興に杯を擧げて婦人の美しき心の爲に傾けられよと」、こう言って乾杯したとのこと。要するに仏教でも女性の聖者がいる。冗談じゃない、いい加減なこと言われては困る、ということだろう。演説が終わると、友人のドイツ人軍医たちが寄ってきて、「すばらしい」と褒めてくれたそうだ。「余の快知る可し」(『鴎外日記』)。その後舞踏会となったが「余は舞踏すること能はざるを以って家に帰り眠に就けり」(同)。
鴎外はその後もこのナウマンによほど恨みを持ったのか、彼への反論を当時のドイツの一流新聞に投稿し、ナウマンもそれに反論し、鴎外も再投稿と論争が続いた。この投稿は鴎外全集にも掲載されていて、誰でも読める。読んでみると、彼のドイツ語は立派には違いないが、いささか気取りと気合が入りすぎていて説得力がない。例えば、最近もアイヌの代表者が日比谷で講演して、日本人に感謝していると述べたから、ナウマンのアイヌ問題についての日本人批判は根拠がない、などと官制のアイヌ懐柔策をそのまま引いている。あるいは、ドイツでも奥さんに隠れて女性がいる人だっているではないか、さらには、既婚婦人が眉を剃ることはもう誰もしないなどとも書いている。結果として少し前まではしていたことを認めたようなものだ。ようするに「日本を馬鹿にするな」というだけのことだろう。ナウマンの話が全体として上から目線だったことは間違いないが、当時の文明の落差を考えれば致し方ないかもしれない。アフリカや東南アジアから帰ってきた日本人が似たような話をすることも思い出される。
今でも、外国人に言われるとムッとする人は多い。日本の町はどこでも同じで、あまり旅行しても意味はない、とドイツ人の友人に言われてカッカしている知り合いがいた。ある時私は、ドイツ人の友人に、ドイツの町はどこに行っても都心にヘルティとかカウフホーフとか質の悪いデパートが陣取っていて不愉快だといったことがある。その友人は「そのとおり、ドイツの恥だ。ああいう悪漢どもは追い出すべき。だいたいドイツは空襲のあとの都市の再興に失敗した」と滔々と述べていた。つまり自分の国の批判をされても、それが内容的に正しいなら、当然認める、つまり自分と国とは別物である意識が染み通っている。「大多数のドイツ人は戦前までは数が2までしか数えられなかった。イッチ、ニ、イッチ、ニとね。サンまでいかないんだよな」と過去の軍国主義をみずから皮肉るドイツ人も多い。残念ながら、鴎外には国と自分との区別がなかった。自分でもいいと思っていない自分の国のなにかの側面について批判されると、ぐっと構える、君民一体の「明治の精神」は今日でも残っているかもしれない。
船のエンジンの話でも、冗談なことは明らかで、そういう面が「文明開化」にあったことは否定できない。島崎藤村の『夜明け前』には、木曽の馬籠から幕末に横浜まで行ってきた村人の買ってきた石鹸の使い方がわからず、煮ているうちに消滅してしまった笑い話が出てくる。一生懸命な鴎外に気楽に受け止める余裕はなかったのだろう。だいたい真夏に上半身裸の生活は小生の子供の頃は普通だったし(もっとも、暑くなるとすぐ上半身裸になるのは今でもドイツ人の習性だ。ナウマンさんも全国測量行脚の最中は上半身脱いだことは多々あったと思う)、疥癬が多いのは、幕末から明治にかけて日本を旅行した外国人の文章には必ずと言っていいほど出てくる。イギリス人のイザベラ・バードやドイツ人でのちにトロヤを発見するハインリヒ・シュリーマンなどの日本旅行記にもある。
それでも鴎外は、喧嘩に勝ったと思ったのか、帰国後もこの新聞投稿を若干手直しして、だいぶ時がたった明治44年(1911年)陸軍省医務局でも印刷させている。日露戦争のあとだ。内村鑑三が、ロシアとの戦争に勝ってもいいことはほとんどない。伊藤博文の妾が増えたぐらいなものだ、と強烈な皮肉を言った頃である。鴎外の怒りとは別に戦前の政治家に妾は当然だった。山本五十六でも真珠湾攻撃の直前に本心を吐露したのは、正妻ではなく二号さんにだった。もちろん今でも、この論争は日本人が西欧人に知的に勝った最初の輝かしい例だ、という日本人研究者もいる(小堀桂一郎氏など)。
とはいえ、鴎外と喧嘩したら日本では勝ち目がない。ナウマンの名前はナウマンゾウ以外には、無視されて消えてしまった。ベルツ水などに名が残るベルツなどに比べて影が薄くなってしまった。それでもナウマンゾウの臼歯を手にとったナウマンさんが、自分の名前を学名にして残すという古生物学者の夢が実現して、にこりと笑った明治初期の瞬間に想いを馳せるのも悪くはないだろう。ナウマンゾウのおかげで落ち目の信濃町にも少しは観光客の来訪があるのだから。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
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