【「舞踏会の手帳」と野尻湖】執筆:三島憲一
戦前のフランス映画『舞踏会の手帖』を覚えている方はもう少ないかもしれない。それでも、伝説の名画としてテレビなどで繰り返し放映されていたので、見ておられる方もそれなりにおられるのではないだろうか。見た方は、北イタリアのコモ湖畔に立ち並ぶ豪邸のイメージが残っているはずだ。一階のサロンから、大理石の階段が数段、直接水面に達している。階段の同じく大理石の手すりには花の溢れる植木鉢。その横のテラスでは着飾った男女がグラスを傾けながら談笑。湖上のヨットのはるか向こうにはアルプスの山々が見える。ヨーロッパでも最も美しい地域での我々庶民には無縁の世界だろう。映画は、舞踏会にデビューした16歳のお嬢様クリスティーヌの手帳に「あなたをいつまでも愛します」と偽りの誓いを書き込んでくれた10人近くの踊りの相手を20年後に探し当て、訪ねて行く話。気のそまない結婚をした金持ちの亭主が(幸いにも?)亡くなったあとのこと。探し当てた相手は、神父になっているのもいれば、アルプスのガイドもいた。犯罪者もいる。田舎町の町長になっていたもう一人はたずねあてたその日が彼の結婚式。自殺者もいた。風光明媚なコモ湖と豪華なヴィラの裏の現実は結構侘しいものがある。それでも全編に流れる舞踏会のロマンチックなワルツと相まって、一昔前の世界が蘇る。
ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のこの映画が作られたのは、1937年、つまり昭和12年のことだ。前にこの「グリーンタウン通信」でご紹介した堀辰雄夫妻の晩夏の野尻湖来訪と同じ年だ。ドイツではナチスが台頭し、1939年9月に始まる第二次大戦の暗雲が地平線に湧き上がり出していた頃だ。日本でもすでに満州事変から日中戦争と、世間は暗かった。そんな時期に、過ぎ去りつつあるヨーロッパの華麗な世界、多くの人が憧れたその世界と人生の哀感を兼ねあわせたこの映画は、日本でもものすごい観客動員数だったとか。そもそもこの監督は日本では圧倒的な人気があって、フランスの映画研究者もおどろくほどとのことだ。
湖畔に大金持ちの邸宅が並ぶコモ湖とわたしたちの野尻湖では、この次元では比較にならない。湖としても琵琶湖よりも大きい。近くのラゴマジョーレと並んで、ヨーロッパでも最も美しくかつ華麗なところだ。とはいえ、堀辰雄の文章もそうだったが、まだまだ貧しかった日本では、野尻湖の国際村の外国人たちの生活がまだ見ぬヨーロッパを連想させたようだ。いつだったか『信濃毎日新聞』に戦前に国際村の外国人の家に女中さんとして働きに行っていた地元の女性が、彼らが午後のお茶に食べていた自家製のケーキのはなやかさにたまげた話が出ていたが、そのとおりだったろう。記事の最後には、今では地元でも買える洋菓子を、今度は外国人の宣教師が円高で「高くて買えない」と嘆いているおちがついていたが。
脱線したが元に戻そう。湖畔の外国人の生活と対岸にあった野尻湖ホテルの様子をコモ湖に見立てて、1941年の秋に来訪した文学青年がいた。堀辰雄を師と仰ぐ、加藤周一だ。ままだ東大医学部の学生だった。その後は、戦後早くヨーロッパに留学し、英語、ドイツ語、フランス語を自由に操り、ブリティッシュ・コロンビア大学、ベルリン自由大学をはじめ各地の有名大学でも教える一方、文芸評論家として活躍しながら『日本文学史序説』の大著をものし、外国では「普遍的天才」と言われることになった彼だ。朝日新聞に長く連載していた『夕陽妄語』はドイツ語訳もある。
その彼に、映画『舞踏会の手帖』と野尻湖ホテルについて記した文章があるので、少し長いが引いてみよう。くだんの映画が作られた4年後の1941年(昭和16年)の12月末である。すでにドイツ軍はパリを落としており、デュヴィヴィエ監督はアメリカに亡命していた。
「私は二三年前に一度見たフィルムを、場末の映画館で見た。・・・私の青春を探す旅と[主人公が]云っている。・・・豪華なシャトオの内部。肘掛椅子の女。カメラは退き、回転し始める。柱、ピアノ、窓、湖、庭園と噴水。湖とそれを囲む丘は、急に野尻湖の秋を呼びさます。今年の初秋、私はホテルの見晴し台にひとりだった。湖は空を映し、その深い藍色とヴェールのように漂う白い雲とを見つめていると、ヨットの歌声が昇ってきた。秋の丘は赤い屋根の家々を散りばめて、湖の向こうに、風景の奥に眠ってでもいるように、静かだった。その湖の色、その山の波、そのヨットのソプラノのトレモロ。私は一人でjeunessse(青春)と云う考えにふけったものだ。その考えの甘美さがふと野尻の風景とスクリーンのコモ湖と、折り重なって、浮かんでくる」(鷲巣力・飯田侑子編『加藤周一。青春ノート』人文書院270ページ)。
ここに出てくる「ホテル」とは、現在のレイクサイドホテルから周遊道路が急坂となって上り詰めた右側にかつて立っていた野尻湖ホテルのことだろう。対岸に「赤い屋根の」家々の国際村が見える。日本のホテルとしては数少ない藁葺き屋根で、中は西洋風の大きなフォアイエ、二階には暖炉が一隅にある、渋い板張りの見晴らしのいいサロンが目立つ。湖上や対岸の国際村のプロムナードから見ると木組みと白壁が素敵なホテルだった。加藤周一はそこに泊まっていたようだ。1919年生まれだから22歳。贅沢といえば贅沢だ。野尻湖ホテルは水面からだいぶ高いところにあるので、湖上のヨットの歌が本当に聞こえてくるものかどうか。それに私も野尻湖でだいぶヨットはしているが、ソプラノの歌など聞こえてきたためしはない。ダミ声で北欧の民謡らしきものを歌っている外国人の操るヨットとすれ違って手を振ったことはあるが。多少とも文学青年の創作のようだが、卒業旅行でヨーロッパに行くなど思いもよらない暗い時代に西洋へのロマンチックな憧れを国際村のヨットと重ね合わせたのは、無理もないかもしれない。かなり夢見心地だったのだろう。
このホテルは1933年(昭和8年)に国策として建てられた。満州進出などで逼迫する財政事情を踏まえて、外国人観光客を呼び込んで、外貨を獲得するべく苦肉の策で国が主導していくつかのいわゆる「国際観光ホテル」を作った。志賀高原ホテル、川奈ホテル、そして赤倉観光ホテルもそうだ。赤倉のホテルは、残念ながら1965年に火事で焼失している。どれも和洋を巧みにないまぜたスタイルで、雰囲気のあるものだ(野尻湖ホテルのかつての姿はネットですぐに検索可能)。しかし、出来あがった頃は、国際情勢が風雲急を告げていて、外国人も観光どころではなく、「武士の商法」ならぬ「官僚の商法」だったようだ。それでも戦後はそれなりに繁盛していたようで、1999年にグリータウンに家を建てたときに、私もサロンまで上がったことがある。素晴らしい風景だった。湖上のヨットからも目印としてよかったのだが、やがて営業をやめてしまい、紆余曲折の末、2003年春には取り壊されてしまった。跡地に立ち入って景色を楽しんでいた観光客に巨木が倒れて悲惨な事故となったのは、2016年秋のこと、まだ記憶に新しい。
加藤に戻ると、先に引いたノートが書かれたのは、1941年(昭和16年)末とあるから真珠湾攻撃の二週間ちょっとあとのことのようだ。彼は続けて書いている。「[最初に見た]三年前とは世界が変わった。デュヴィヴィエもおそらく二度とフランスでは仕事はできないだろう。彼の描いた人物たちの過去は、今やフランスの過去となった」(同書272ページ)。ちょっと気障だが、ナチスに潰されたひとつの時代を思うのは、わからないことはない。
加藤は信州を愛したようだ。自伝の『羊の歌』(岩波新書)には、学生時代に夏をすごし、疎開先にもなった追分の風物が、盛んに出てくる。軽井沢のテニスコート、浅間の風景、白樺の林など。しかし、残念ながら野尻湖は出てこない。先に引いた『青春ノート』の一節は、夏の軽井沢が終わってから、野尻湖に足を伸ばしたときのことかもしれない。加藤には他に『高原好日』と題した信州の思い出が信濃毎日新聞社で出ているが、筆者は今、外国にいるので、残念ながら見ることができない。ひょっとするとそこには野尻の思い出があるかもしれない。
そこで別の話題にしよう。映画『舞踏会の手帖』が作られ、堀辰雄夫妻が野尻湖に来たちょうどその頃、正確には夫妻の野尻来訪の二週間ちょっと前、野尻湖に滞在していたフランスの若い学者がパリの友人に手紙を書いていた。その一節を紹介しよう。
親愛なるビュオー様 野尻1937年8月1日
今、長野県にある野尻湖の岸辺であなたにこの手紙を書いています。時間がどんどん過ぎていきます。最も生き生きした印象は、するべき仕事のあまりの多さです。今晩、貴兄の質問一覧に目を通しているうちに、質問へのお返事というよりも、貴兄の研究室にいるかのような感じで、日本について少しお話をしたくなりました。
3ヶ月間東大の研究室と帝室博物館にいましたが、大きな問題の解決には至りませんでした。とはいえ、いくつかの細かい問題は解くことができました。そこでは見たかったものを見ることができました。つまり先史時代の発掘場所で見つかった材料です。少なくとも北の地域のそれです。すなわち骨、鹿の角、針、錐、環、模様のついた管などです。まだそこからいかなる結論も出すことはできず、専門家に色々と質問をしている最中です。唯一見ることができたもので、アイヌのものはきわめて曖昧です。私はこの問題に特に注目したいと思いますが、仕事は相当にハードです。アイヌの占める割合は、ご承知のようにちょっと目にはかなり薄く見えます。現在のアイヌは昔のアイヌの、それも間接的な子孫の子孫です。でももう少し様子を見てみようではありませんか。アイヌに北方の影響がどのくらいあるかという問題はアイヌを調べるだけでは解決できません。私が好きで集めてきた千島列島、カムチャッカ、アリューシャンなどのものが毎日豊かになっていることはたしかです。ひょっとしてあなたの研究対象のハイダ族(注:カナダのブリティシュ・コロンビアの先住民族。その集落と芸術はユネスコの世界遺産。特に細かい木彫で知られる)の水車に水をもっていけるかもしれません。
それであなたの質問に答えましょう。
住居について。まずは野尻の場所の大枠についてほんの少し話しましょう。穏やかな波の光が、繋がった部屋の中、そして暖炉のところまで反射しています。私は佐渡に近いところにいます。多分佐渡にも近いうちにいくことでしょう。
貝を模倣した石の細工について。お送りするのは帝室博物館の三つの絵葉書です。石の輪(一番目の絵葉書)は、確実にブレスレットでしょう。わたしもなんどかいじってみました。灰緑色の素材に掘ってあり、とても軽いです。第二の絵葉書にある他のものとおなじに、こうした品物は、北の方の青銅の地域と南の方の青銅と鉄の日本型タイプの混合地域の間で、青銅器とともに見つかったものです。
このあと専門的な話が続くので、引用は、この辺にしておこう。専門的な話とは、この手紙の筆者のフランスの人類学者が当時集中していたアイヌの起源の問題で私には手に負えない。この手紙の筆者は、アンドレ・ルロワ=グーラン(1911~1986)。のちにソルボンヌやコレージュ・ド・フランスの教授も務めたフランスを代表する天才的な人類学者の若き日のことだ。大学ではロシア語、中国語を収めていた。漢字が読めた以上、日本でも言葉は早く学んだことは想像に難くない。新婚の奥さんと一緒の日本留学は日本政府の基金で、滞在中は主として京都の日仏会館に住みながら、信州、北海道、そして当時の東京帝大を行き来していたようだ。信州では、避暑がてら野尻周辺の遺跡や風俗を研究していた。死後だいぶ経って出た『日本についての忘れられた紙片Pages oubiées sur le Japon』(2004年)という滞日ノートには、野尻湖の弁天島の宇賀神社の祭り、桟橋に立ってお祓いをする神主さん、盆踊り、野尻周辺の庚申塚などの写真がたくさん掲載されている。中でも立ち並ぶ古民家の写真などは、そのほとんどがなくなってしまった今では、貴重なものだ。ドイツの友人の家の書棚に目を走らせていたときに、なんとなく表題に惹きつけられて開いたこの本の最初のページが、野尻湖からの手紙だったのに驚いたのは、もう5年ほど前のことだ。「穏やかな波の光が、繋がった部屋の中、そして暖炉のところまで反射しています」だけでは、どこに滞在していたかは、残念ながらわからないが、野尻湖ホテルだった可能性もそれなりに高そうだ。
ルロワ=グーラン氏は独仏開戦前にパリに戻り、戦争中はフランスの対独レジスタンスに参加し、戦後はその功績でレジオン・ドヌール勲章ももらっている。人類の発展過程を書いたいくつかの書は、20世紀の古典というに等しい(一部だが翻訳もある)。その彼が、堀辰雄夫妻の来た1937年8月にやはり野尻湖に滞在し、日本の古い生活を調査していたのだ。数年後には若き加藤周一が来訪した。そして戦争が始まり、人類学者のルロワ=グーラン氏はドイツへのレジスタンスに加わってフランスの農村で銃を取り、加藤は、東大医学部の医局にあって空襲の負傷者の治療に昼夜兼行で働き(その辺りは『羊の歌』に出てくる)・・・と、それぞれ人生が分かれていくことになる。
冒頭に戻ろう。コモ湖畔のシャトーだかヴィラだか知らないが、豪邸群は今でも健在のようだが、住んでいるのは、有名なサッカー選手と映画俳優ばかりとか。一部はアメリカの名門大学の夏合宿の施設となっている。変わり果てたのは、舞踏会の踊りの相手と野尻湖ホテルだけではないようだ。過去は過去だから、回想されるのだ。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
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野尻湖グリーンタウン神山ロッヂに設置されたカメラからの3分ごとのライブ映像
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野尻湖グリーンタウン美山ロッヂに設置されたカメラの映像
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