【中勘助と弁天島】執筆:三島憲一
東京方面から野尻湖に来るときには、旧18号線のかつては信号のあった野尻の交差点を右折して湖畔に向かう。右折するとじきに右側に郵便局。その少し手前を右に曲がれば、以前に紹介したナウマンゾウの博物館がある。郵便局から道路を隔てた反対側には公民館とその大きな駐車場ないし公園がある。40年前の1980年代にはこの広場で盆踊りが催されていた。国際村からの外国人も含めてものすごい人が集まり、熱気だけで汗びっしょりになったものだが、今ではひっそりとほんの数人が踊ることがあるほどになってしまった。
盆踊りが盛大だった頃には気がつかなかったが、この広場の角の、湖畔道路に出るところに小さな石碑がある。石碑には中勘助(1885〜1965)の次の詩が記されている(写真参照)。
ほほじろの声聞けば
山里ぞなつかし
遠き昔になりぬ
ひとり湖のほとりにさすらいて
この鳥の歌を聞きしとき
ああひとりなりき
ひとりなり
ひとりにてあらまし
とこしへにひとりなるこそよけれ
風ふき松の花けぶるわが庵に
頬白の歌をききつつ
いざやわれはまどろまん
ひとりにて
ほおじろや松の花という言葉からして、春から初夏にかけて、季節の良いときなのに、それでもこの詩人は孤独と寂しさを歌っている。若き日の恋を思い起こして歌うイブ・モンタンのシャンソン「枯れ葉」は文字通り秋から冬の風景のなかに思い出と悔い(Les souvenirs et les regrets)がほの甘く忍び込んでいるのだが、中勘助のこの13行の詩の場合は、暖かい季節に昼寝つきでの孤独。達観なのか、いっそうきびしいさびしさなのかよくわからないところがある。ネットで検索すると、これに曲をつけて西南学院のグリークラブが歌っているものもある(https://www.youtube.com/watch?v=uduEdqIQs4Q)から、それなりに有名らしい。
それではなぜ、こんなところに中勘助の詩碑があるのだろうか。謎はその石碑のすぐとなりに立つ小さな木製の板に書かれた文言を見ればわかる。そこにはこうある。
「小説「銀の匙」で知られる中勘助は、静養のために明治四十四年(一九一一)の八月に野尻湖を訪れ、九月二十三日から二十五日間にわたって、湖中の琵琶島で島篭りをしました。
「銀の匙」の前編は翌年再び訪れた野尻湖で執筆されました。
「ほほじろの聲」は大正十三年(一九二四)五月五日に、野尻湖での生活をなつかしく思い出して作られた詩です。この詩碑は公民館の完成を記念して昭和四十八年(一九七三)に建立されました」
なるほどなるほど。さびしく島篭りをしていたのは秋だが、13年ぶりに野尻湖を再訪したときはほおじろが鳴き、松の花が見える5月だったということだ。5月に再訪してかつてのさびしい秋の生活をしのんだということだろう。
ところで明治後期にわたしたちの野尻湖の琵琶島ないし弁天島での島篭りは近代日本の文学や思想に記念碑的な意味を持っていたようだ。明治36年(1903年)には岩波茂雄(1881〜1946)が夏休み四十日のあいだ哲学書を持って琵琶島にこもった。一高で同級で、のちに漱石門下の四天王と言われた安倍能成(1883-1966)も数年後に同じことをしている。岩波書店の創設者として有名な岩波茂雄は信州は諏訪の出身だが、明治36年5月、一高の同級生の藤村操が華厳の滝に飛び込んで自死した有名な事件に衝撃を受けて、弁天島に篭ったと言われている。人生に煩悶する「煩悶青年」という言葉が流行った時代だ。「人生の意義はなんぞ?」などという今の学生とは無縁の問いに悩んでいた。ほとんどの同級生はほどなくして「人生の意義は出世による金と権力にあり」と悟ることになるが、その道を歩まなかった人たちも多かった多感な明治の青春だ。
藤村操が飛び込む直前に傍の樹木の皮を剥いで書いた「岩頭の賦」はその後も人口に膾炙した。「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今・・・萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を抱いて終に死を決するに至る・・・」。岩波も藤村も安倍も一高の英語の先生は夏目漱石だった。この事件は、漱石の作品でも各所で触れられている。
中勘助も同じく一高で彼らと同級だったが、弁天島に籠ったのはその八年後だから、もういい大人だ。彼は二回籠もって、特に二回目は『銀の匙』の前編を執筆したとされている。前編が全体の大部分だから、要するにここで『銀の匙』を書いたと言っても差し支えない。当時は祭礼の時に来る神主さん用に宿舎があったらしい。
あまりにも有名なので、『銀の匙』の中身を紹介する必要もないと思われるが、それでもちょっと触れておこう。野尻湖で書いたのに残念ながらこの湖や村のことは出てこない。この作品は、子供の頃から病弱のうえに人見知りで、周囲に馴染めない語り手の、いわば幼児から学校生活までの回顧談だ。そしてクラスの女ともだちや裏の家の「お嬢さま」と遊んだ話、病弱の自分の相手をしてくれた伯母さんの話、最後は葉山の友人の別荘で出会った「美しい人」との話、どの女性とも淡い思いだけで別れる話である。特に法事に帰ったきり、病を得て戻ってこなかった伯母を彼女の故郷の名古屋に訪ねる話は、明治の薄幸だが、思いやり深い女性の信心に心打たれる。
主人公(中勘助本人と思われるが)は生まれた場所が悪かった。神田のど真ん中だった。「私の生れたのは神田のなかの神田ともいうべく、火事や喧嘩や酔っぱらいや泥棒の絶えまのないところであった。・・・私のような者が神田のまんなかに生まれたのは河童が砂漠で 孵ったよりも不都合なことであった」。
ガキ大将に取り巻かれいじめられるのはあたりまえ、そのたびに庇ってくれる同居の伯母さん。
やがて親は心配してがさつな下町を離れて山手に越す。山手といっても神田から歩いていける小石川の小日向台だ。小日向台といえば、今はかなり立て込んでいる住宅街だ。都心に近い割には静かな方だが、当時、つまり明治20年代から30年代は文字通り「片田舎」で畑や茶畑が家々の間に広がっていたらしい。
「このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静かに住んでいる。おおかた旧幕臣から代々住み続けてる士族たちで、世がかわって零落はしたがまだその日に追われるほどみじめな有様にはならず、つつましやかにのどかな日をおくってる人たちであった。それに人家もすくない片田舎のことゆえ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあつてお互に心やすくしている。朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があつて果樹など植えられ、屋敷と屋敷のあひだには畑がなくば茶畑があつて子供や鳥の遊び場になつてゐる。畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない」。「杉や榎や欅などの立ちならんだ崖のうえから見渡すと富士、箱根、足柄などの山山がこうこうと見える」
現在の小日向台から(マンションの屋上からはいざ知らず)富士、箱根、足柄などは、夢のまた夢だろう。
そこでの生活を今読むとまさに明治の風物詩だ。金平糖や肉桂棒のようなお菓子。伯母がよく連れて行ってくれた大日様は妙足院のことで今でも存在している(写真参照)。それに子供たちが遊びに合わせる歌。「ひ〜らいた ひ〜らいた なんのはなひ〜らいた れんげのはなひ〜らいた・・・ひ〜らいたとおもったらやっとこさとつ〜ぼんだ」。「か〜ごめ か〜ごめ か〜ごんなかの鳥は・・・」「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしゃ若いな・・・」。
一部は私の世代でも知っている。
手毬をつきながら「おねんじょさま」を一緒に歌った裏の家の綺麗な「お嬢さま」の薫ちゃんは、父親がなくなったために、家族と国へ帰っていく。引っ越しの朝挨拶に来たのに、照れ屋で人見知りの私は素直に「さよなら」も言えずに、部屋から玄関に出てこない。そんなタイプの少年だった。
こうしたほのかな別れの話ばかりの作品だが、それでも主人公はいつまでも虐められるのが嫌で猛烈に勉強してクラスでトップになる。天邪鬼でもあるから知力を使って先生とも論争をする。日清戦争がはじまると「日本人には大和魂があるから必ず勝つ」という先生や級友に対して、『史記』や『十八史略』も知らない先生を軽蔑しながら論争を挑む。「中国が勝つに決まっている」と。「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでしょう。日本に加藤清正や北条時宗がいれば支那にだって関羽や張飛がいるじゃありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈った話をして敵を憐むのが武士道だなんて教えておきながらなんだってそんなに支那人の悪口ばかしいうんです」。
引っ込み思案にしては堂々たる議論だが、その後の中勘助の人生もできるだけ国家や政治、そして自分の家にはかかわりたくないという放浪の人生だった。「ほおじろの歌」でも「とこしへにひとりなるこそよけれ」と歌っているとおりだ。その彼が最も嫌ったのは立身出世を目指す長兄だった。実際に長兄はドイツに留学し、九州帝国大学の医学部助教授にまでなった。勉強に優れ、柔剣道も強く、同じことを弟に強要する兄を主人公は「地獄の道連れ」と思って我慢し、憎み、素知らぬふりをする。しかし、兄は出世街道の途上、脳溢血に倒れ、その後亡くなるまでの長年月、中勘助は兄嫁と一緒に世話をした。嫁いで来ても結局は夫を二十年間世話することになったかわいそうな兄嫁を「明治の人柱」と形容している。長兄が倒れても家督を継ぐのを長いこと拒否して放浪の旅を重ねていた。兄が亡くなったのは、中勘助が五八歳で結婚する日の早朝だったが、勘助はそのことをお嫁さんにも客人にも告げず、平然と結婚式をあげているほどだ。
ところで今では受験で有名な灘中および灘高校の名物の国語の先生だった橋本武は、中学一年生の国語の授業を担当すると来る日も来る日もこの『銀の匙』を教材に使った。持ち上がりで中三までこの教材を使った。授業中は明治日本のさまざまな問題へと脱線もし、最後には子供たちにも自分の思い出の作品を書かせた。結果として当時はまだ無名の灘中学から灘高校に進学した生徒たちは、六年に一度、大量の東大・京大合格者を出して、同校がいわゆる名門校になるのに大いに寄与したとのことだ。橋本氏に言わせると、明治の東京の風物詩を描いた日本語が抜群にいいし、地名や風俗習慣を考証させるのにも適している。さらにここに出てくる漢字をマスターすれば、平均的日本人の漢字の読み書きの能力を大幅に上回る。それに各章の長さが新聞連載だったこともあって授業に適しているというのだ。このニュースレターの読者で受験期のお子さんやお孫さんがいる方は、『銀の匙』の精読を勧めてみれば、善光寺に合格祈願のお札を納めるより効果があるかもしれない。
『銀の匙』の原稿を中勘助は恩師の夏目漱石に送ったところ、漱石が激賞し、朝日新聞に紹介し、新聞連載となり、その後ベストセラーとなったそうだ。牛込の漱石からしても、明治の東京がなつかしかったのかもしれない。漱石の作品とともに岩波書店のドル箱となり、小日向の家も、一高時代からの友人の岩波茂雄に買ってもらっている。
このように明治の市井の生活とその中の薄幸の女性たちへのほのかな思い、出世街道と軍国主義の拒否という『銀の匙』は、野尻湖で書いたのに野尻湖は出てこない。だが実は、中勘助は弁天島に最初に籠った時に、お篭り日記を書いている。『島守』という作品で、ネットの青空文庫でも岩波文庫でも読める(岩波文庫は『犬』という別の小説と一緒)。
弁天島に篭る前の数日は旧道沿いに今でもある安養寺に世話になっていたようだ。東京に戻ったあと、安養寺の住職藤木氏に宛てたお礼の手紙が残っているそうだ。そして島にこもって半ば自炊の生活をしていたが、食料を運んだり、郵便を持ってきてくれたのは本陣の当主だった。それ以外にも「池田さん」という人が身の回りの世話に来てくれるが、それが本陣の当主と同一人物かどうかはわからない。
湖水で米をといで薪を集めて飯を炊き、鍋で粗末な煮物を作って食べ、鍋釜茶碗も湖水で洗う生活だった。澄みきった湖水を通して泳いでいる魚が見える。池田さんがとれた鯉をもってきてくれたこともある。私たちも馴染みの野尻湖の描写を読んでみよう。書き出しはこうだ。
「これは芙蓉の花の形をしているという湖のそのひとつの花びらのなかにある住む人もない小島である。この山国の湖には夏がすぎてからはほとんど日として嵐の吹かぬことがない。そうしたすこしの遮るものもない島はそのうえに鬱蒼と生い繁った大木、それらの根に培うべく湖の中に蟠ったこの島さえがよくも根こそぎにされないと思うほど無惨に風にもまれる」。
こういう文章もある。
「[九月]二十四日・・・なにをするともなく夕がたになった。きょうは夜になるのが寂しい。その夜の闇のなかにひとつぶの昼の光をとめておくような気もちで島の背を燈明をともしにゆく。落葉の音や木立ちにひびく自分の足音をききながら石段をおり燈明をともしてなにということもなく眺めている。燈明の影が水にうつる。その水底には幾年となく落ちかさなった枝、そのうえを小さな魚の子のゆくのが透いてみえる。かれらはまことに天から生みおとされたかのように処を得がおである。きょうは曇り。飯綱にも黒姫にも炭焼の煙がたつ。煙が裾曳くのは山颪であろう」。
「[一〇月]二日。[朝]食後、桟橋へでる。斑尾の道を豆ほどの荷馬がゆき、杉窪を菅笠がのぼってゆくのは蕎麦を刈るのであろう。そのわきには焦げ茶色の粟畑とみずみずしい黍畑がみえ、湖辺の稲田は煙るように光り、北の岡の雑木の緑に朱を織りまぜた漆までが手にとるようにみえる。妙高、黒姫も峰のほうはいつしか黄葉しはじめた。曳かれてゆく家畜のように列をなして黒姫から飯綱へかけ断続した朝の雲がゆく」。
「[一〇月]十一日。午後。晴。浜におりて芋を洗う。夕。落葉をひろう。三つ四つ。妙高、黒姫、飯綱の嶺にさらさらと初雪がふってきのうまで恐ろしげにみえた山の姿がなつかしやかになった。なごりの雲がさりがてにたゆたっている。水のそこにすいてみえる筌のなかへ小さな魚がしずかにくぐってゆく。彼はただ一夜だけれどもこの島の岸ベにかかる安住の宿を見いだした」。明治の頃の「彼」の使い方の勉強にもなる。当時は「彼」と「彼女」の区別もなかったし、魚などにも使った。受験に役立つわけだ。
それ以外にも南風が午後から北風に変わるさま、妙高、黒姫にかかる霧が次第に湖上にまで立ち込めてゆくさま、対岸の人家の明かりなど、今でもおなじ景色が巧みに描かれている。大きく違うのは、炭焼きの煙だ。今では想像する以外にない。また、刈り入れが終わると温泉に行くのを楽しみにしている村人の話もある。
この作品はもう版権がきれているはずなので、次回は少し長めに引用かつ紹介して、地名などの考察もしてみたい。次号はちょうど秋なので、好都合だ。だが、今回の紹介を終わるにあたって本稿の冒頭に戻りたい。
冒頭に引いた石碑の裏に回ってみると、建立の経緯が石に彫られている。グリーンタウンに関係のある記載があるので、それを紹介して終わりとしたい。
「野尻湖公民館造園」の完成を記念してこの碑を建てる。
昭和四十八年十一月
信濃町
野尻区
造園協力者
野尻湖観光開発株式会社
株式会社デベロッパ信州
高島達雄
株式会社サンコープ
三栄興業株式会社
嗚呼!諸行無常とはこのことか!中勘助が浮き世を嫌ったのもわかるというものだ。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
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